すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2011年1月12日祈祷会(詩編80篇、私たちを連れ帰りたまえ)
1.北イスラエルの回復を願う祈り

・詩編80篇は滅ぼされた北イスラエルの回復を願う祈りだ。前722年北イスラエルはアッシリヤにより滅ぼされ、住民はアッシリヤに強制移住させられた。エフライム、マナセ、ベニヤミン、いずれも北イスラエルの部族の名前だ。
-詩編80:1-4「イスラエルを養う方、ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ、御耳を傾けてください。ケルビムの上に座し、顕現してください。エフライム、ベニヤミン、マナセの前に。目覚めて御力を振るい、私たちを救うために来てください。神よ、私たちを連れ帰り、御顔の光を輝かせ、私たちをお救いください」。
・ヤコブの妻ラケルはヨセフとベニヤミンを生み、ヨセフは二人の子(エフライム、マナセ)を生んだ。ここではラケルの子どもたち、失われた北部族の回復が祈られている。ユダ王国末期、ヨシヤ王は北部族の領土回復を目指して戦い、エレミヤも北王国との統合によるイスラエル全体の回復を祈った。そのエレミヤの祈りと同じ心が詩編80篇に流れている。
-エレミヤ31:15-17「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる、苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む、息子たちはもういないのだから。主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る」。
・南北イスラエルの統合は人々の悲願であった。捕囚地の預言者エゼキエルもその日が来ることを祈った。
-エゼキエル37:21-22「私はイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の中から取り、周囲から集め、彼らの土地に連れて行く。私は私の地、イスラエルの山々で彼らを一つの国とする。一人の王が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国となることなく、二度と二つの王国に分かれることはない」。
・80篇は歌う「主よ、あなたは怒り、北部族を滅ぼされました。彼らは涙のパンを食べています。どうか彼らを戻して下さい」。「神よ、私たちを連れ帰り、御顔の光を輝かせ、私たちをお救いください」という言葉が繰り返されている。
-詩編80:5-8「万軍の神、主よ、あなたの民は祈っています。いつまで怒りの煙をはき続けられるのですか。あなたは涙のパンを私たちに食べさせ、なお、三倍の涙を飲ませられます。私たちは近隣の民のいさかいの的とされ、敵はそれを嘲笑います。万軍の神よ、私たちを連れ帰り、御顔の光を輝かせ、私たちをお救いください」。

2.神はお始めになったことを見捨てられない

・9節から詩人は自分たちを主に植えられたブドウの木になぞらえ、民族の歴史を振り返る。あなたは私たちをエジプトから約束の地に植え替え、その枝はダビデの時代には大きく広がった。しかしあなたはブドウ園の石垣を崩された。
-詩編80:9-14「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを植えられました。そのために場所を整え、根付かせ、この木は地に広がりました・・・あなたは大枝を海にまで、若枝を大河にまで届かせられました。なぜ、あなたはその石垣を破られたのですか・・・森の猪がこれを荒らし、野の獣が食い荒らしています」。
・神が自らのブドウ畑を破壊される、イザヤが預言した出来事の通りが起きたとの認識が詩人の内にある。
-イザヤ5:5-7「さあ、お前たちに告げよう、私がこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、私はこれを見捨てる。枝は刈り込まれず、耕されることもなく、茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、と私は雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁きを待っておられたのに見よ、流血。正義を待っておられたのに見よ、叫喚」。
・詩人は自分たちの苦難が自分たちの罪に対する神の怒りの結果と認識する。故にその回復は神がお怒りを鎮められることにしかない。詩人は「主よ、私たちを連れ帰り、御顔の光を輝かせ、私たちをお救いください」と繰り返す。
-詩編80:15「万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください。あなたが右の御手で植えられた株を、御自分のために強くされた子を・・・御手があなたの右に立つ人の上にあり、御自分のために強められた人の子の上にありますように。私たちはあなたを離れません。命を得させ、御名を呼ばせてください」。
・救いのない苦難におかれた時、人はどうすれば良いのだろうか。エティ・ヒレムスはオランダ生まれのユダヤ人で、1943年、29歳でアウシュヴィッツのガス室で亡くなった。彼女は死の運命もまた神が与えられたと受け入れて行く。
-エティ・ヒレムスの日記から「神よ、あなたが私をお見捨てにならないように、私はあなたを助けましょう。一つのことだけが私にはっきりしてきました。あなたは私たちを助けることが出来ず、私たちがあなたを助けなくてはならないということです。そうすることで私たちは終に私たち自身を助けることになりましょう。私たちの中にあるあなたの一部を救うこと、私たちの内にあるあなたの住処を最後の最後まで守らなくてはならないということです」。
・「神はお始めになったことを捨てられることはない」、この苦難も神の御手の中にあるとの信仰が詩編80篇にある。それは新旧約聖書を貫く思想だ。だから出口の見えない闇の中でも、人はそれがいつかは終わるとの希望を持てる。
-曽野綾子・哀歌から「神は御自分で為されたことには必ず責任を問われる。神は今回の出来事を通して、あなたを別の任務に使うようにされた、修道女なら誰にも出来る。しかし、神はあなたに別の仕事をお望みになった」。
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