すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2010年12月29日祈祷会(詩編78篇下、民の挫折と神の救済)
1.北イスラエルの挫折

・詩編78篇は「父祖の歴史を思い起こせ」と説く教訓詩だ。詩人は前半で、荒野での父祖の罪を思い起こす。それは足ることを知らない「貪りの罪」であった。水が与えられればパンがないとつぶやき、パンが与えられれば肉がないと叫ぶ。
-詩編78:17-20「彼らは重ねて罪を犯し、砂漠でいと高き方に反抗した。心のうちに神を試み、欲望のままに食べ物を得ようとし、神に対してつぶやいて言った『荒れ野で食卓を整えることが神にできるのだろうか。神が岩を打てば水がほとばしり出て、川となり、溢れ流れるが、民にパンを与えることができるだろうか、肉を用意することができるだろうか』」。
・神は民の忘恩にも拘わらず民を約束の地に導かれた。その地で民は再び罪を犯す。それを後半は記述する。
-詩編78:52-55「神は御自分の民を羊のように導き出し、荒れ野で家畜の群れのように導かれた・・・神は彼らを御自分の聖地の境にまで導かれた。右の御手をもって得られたその山に。彼らの前から諸国の民を追い払い、彼らの嗣業を測り縄で定め、イスラエルの諸部族をそれぞれの天幕に住まわせられた」。
・その嗣業の地で民は再び神を試みる。異教の祭壇に仕え、偶像の神々を拝んだ。偶像礼拝の罪である。
-詩編78:56-58「彼らはいと高き神を試み、反抗し、その定めを守らず、先祖と同じように背き、裏切り、欺く弓で射た矢のようにそれて行き、異教の祭壇に仕えて神を怒らせ、偶像を拝んで神の激情を引き起こした」。
・神はエジプトから民を救いだした時、彼らと契約を結ばれ、偶像礼拝を禁じられた。自己の欲望を生きるのではなく、神の御旨を生きよと命じられた。偶像礼拝とは自分の願いを聞いてくれる神を拝むこと、つまり自己の神格化なのだ。
-出エジプト20:4-6「あなたはいかなる像も造ってはならない・・・あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。私は主、あなたの神。私は熱情の神である」。
・民は契約を破った。その結果、契約の箱が置かれたシロの聖所は破壊され、契約の箱は敵に奪われ、民は敵の剣に渡された(契約の箱は士師時代シロの聖所に置かれたが、この事件(サムエル上4章参照)を機にエルサレムに移された)。
-詩編78:59-64「神は聞いて憤り、イスラエルを全く拒み、シロの聖所、人によって張られた幕屋を捨て、御力の箱がとりこになるにまかせ、栄光の輝きを敵の手に渡された。神は御自分の民を剣に渡し、御自分の嗣業に怒りを注がれた」。
・そしてついに北イスラエルはアッシリアにより滅ぼされる(前721年)。詩人は北イスラエルの滅亡を知っている。
-詩編78:67「主はヨセフの天幕を拒み、エフライム族を選ば(れなかった)」。

2.ユダの選びと挫折

・しかし神はユダをその嗣業として選び、エルサレムをご自分の住まいとされたと詩人は締めくくる。詩人はユダの滅亡を知らない。おそらくこの詩は王国末期のヨシヤ王時代に書かれたのであろう。
-詩編78:68-72「ユダ族と、愛するシオンの山を選び、御自分の聖所を高い天のように建て、とこしえの基を据えた地のように建てられた。僕ダビデを選び、羊のおりから彼を取り、乳を飲ませている羊の後ろから取って、御自分の民ヤコブを、御自分の嗣業イスラエルを養う者とされた。彼は無垢な心をもって彼らを養い、英知に満ちた手をもって導いた」。
・申命記史家は北イスラエルの滅亡の理由を、彼らが契約を踏みにじり、偶像礼拝に走ったことにあると理解している。
-列王記下17:13-23「主はそのすべての預言者・・・を通してイスラエルに・・・警告されていた『・・・私があなたたちの先祖に授け、また私の僕である預言者たちを通してあなたたちに伝えたすべての律法に従って、私の戒めと掟を守らなければならない』。しかし彼らは聞き従うことなく、自分たちの神、主を信じようとしなかった先祖たちと同じように、かたくなであった・・・彼らは自分たちの神を・・・捨て・・・アシェラ像を造り、天の万象にひれ伏し、バアルに仕えた・・・主はついに・・・イスラエルを御前から退けられた。イスラエルはその土地からアッシリアに移された」。
・この詩が書かれた時、ユダ王国は一時的に隆盛を取り戻していた。しかしユダもやがて同じ理由で裁かれていく。
-列王記下24:20-25:1「エルサレムとユダは主の怒りによってこのような事態になり、ついにその御前から捨て去られることになった。ゼデキヤはバビロンの王に反旗を翻した。ゼデキヤの治世第九年の第十の月の十日に、バビロンの王ネブカドネツァルは全軍を率いてエルサレムに到着し、陣を敷き、周りに堡塁を築いた」。
・この詩には二つの罪が記される。第一の罪は与えられた以上に渇望し、要求すること、貪欲の罪だ。教会も与えられたものに感謝することなしに、より以上のもの(教会成長)を求めて行けば砕かれるであろう。与えられた人々がいかに「主にあって一致」出来るかを求め、その結果集められる人が増えれば感謝して行く。教会は数値目標を掲げてはいけない。
・第二の罪は偶像礼拝である。主の恵みを忘れて異教の神を拝する、それは神を自己目的化することだ。無病息災、商売繁盛だけが恵みなのではない。病気も挫折もまた神からの賜物である。苦難が与えられればそれをも御旨として受け入れて行く時に、「苦難を通して現される神の恵み」が見えてくる。
−河野進詩集から「病まなければ、ささげ得ない祈りがある。病まなければ信じ得ない奇跡がある。病まなければ、聴き得ない御言がある。病まなければ近づき得ない聖所がある。病まなければ、仰ぎ得ない聖顔がある。おお病まなければ、私は人間でさえもあり得なかった」。
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