すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2010年12月22日祈祷会(詩編78篇上、父祖の罪を思い起こせ)
1.神の奇しき業を彼らは見た

・詩編78篇は72節まであり、119篇(176節)に次いで長い詩だ。過去の歴史を回顧して現在を考える教訓詩である(105篇、106篇参照)。詩は民族の歴史をありのままに語り継いでいこうという長老の、若者に対する呼びかけから始まる。
-詩編78:1-4「私の民よ、私の教えを聞き、私の口の言葉に耳を傾けよ。私は口を開いて箴言を、いにしえからの言い伝えを告げよう。私たちが聞いて悟ったこと、先祖が私たちに語り伝えたことを。子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう。主への賛美、主の御力を、主が成し遂げられた驚くべき御業を」。
・それは先祖の犯した罪をありのままに認めることである。エフライムの子ら(北イスラエル)は主を裏切り、そのために北イスラエルは滅びた(78:67)。民族の罪を認めて行く、罪責告白の詩である。
-詩編78:5-9「主はヤコブの中に定めを与え、イスラエルの中に教えを置き、それを子孫に示すように、私たちの先祖に命じられた。子らが生まれ、後の世代が興るとき、彼らもそれを知り、その子らに語り継がなければならない。子らが神に信頼をおき、神の御業を決して忘れず、その戒めを守るために。先祖のように頑な反抗の世代とならないように・・・エフライムの子らは武装し弓を射る者であったが、闘いの日に、裏切った」。
・12節から具体的な歴史の回顧が始まる。前半の12-39節では、荒野時代の先祖たちの過ちが掘り起こされる。主はエジプトで海を開いて先祖たちを救済され、荒野では岩を開いて水を与えられた。驚くべき救いの業を詩人は歌う。
-詩編78:12-16「エジプトの地、ツォアンの野で、神は先祖に対して不思議な御業を行い、海を開いて彼らを渡らせる間、水をせきとめておかれた。昼は雲をもって、夜は燃え続ける火の光をもって彼らを導かれた。荒れ野では岩を開き、深淵のように豊かな水を飲ませてくださった。岩から流れを引き出されたので、水は大河のように流れ下った」。
・それなのに先祖たちは不信を持って応答した。水が与えられるとパンがないと不足をつぶやき、パン(マナ)が与えられると肉がないと文句を言った。与えられた以上のものを渇望する。ここに罪の本質=貪りがある。
-詩編78:17-20「彼らは重ねて罪を犯し、砂漠でいと高き方に反抗した。心のうちに神を試み、欲望のままに食べ物を得ようとし、神に対してつぶやいて言った『荒れ野で食卓を整えることが神にできるのだろうか。神が岩を打てば水がほとばしり出て川となり、溢れ流れるが、民にパンを与えることができるだろうか、肉を用意することができるだろうか』」。
・それにも拘わらず、神は彼らを養い、彼らを導かれた。
-詩編78:23-29「それでもなお、神は上から雲に命じ、天の扉を開き、彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。・・・神は東風を天から送り、御力をもって南風を起こし、彼らの上に・・・翼ある鳥を海辺の砂のように降らせ、彼らの陣営の中に、宿る所の周りに落としてくださった。彼らは食べて飽き足りた。神は彼らの欲望を満たしてくださった」。

2.それでも彼らは満足しなかった

・しかし、人間の欲望は留まることを知らない。神はその人間に対して怒られた。
-詩編78:30-34「彼らが欲望から離れず、食べ物が口の中にあるうちに、神の怒りが彼らの中に燃えさかり、その肥え太った者を殺し、イスラエルの若者たちを倒した。それにもかかわらず、彼らはなお罪を犯し、驚くべき御業を信じなかった・・・神が彼らを殺そうとされると、彼らは神を求め、立ち帰って、神を捜し求めた」。
・しかし人間が悔い改めるとその怒りを収められる。その悔い改めが表面的なものにすぎないことを知りながら怒りを収められる。人間は肉にすぎないことを知っておられるからだ。
-詩編78:35-39「神は岩、いと高き神は贖い主と唱えながらも、その口をもって神を侮り、舌をもって欺いた・・・しかし、神は憐れみ深く、罪を贖われる。彼らを滅ぼすことなく、繰り返し怒りを静め、憤りを尽くされることはなかった。神は御心に留められた、人間は肉にすぎず、過ぎて再び帰らない風であることを」。
・神は荒野で忍耐され、彼らを約束の地に導かれた。しかしその嗣業の地においても人は罪を犯し続けた。先祖たちは主の恵みを忘れ、カナンの神々を拝み始めた。自分たちの贖い主を信じない、この罪に直面して、主は彼らを滅ぼされた。
-詩編78:67-69「主はヨセフの天幕を拒み、エフライム族を選ばず、ユダ族と、愛するシオンの山を選び、御自分の聖所を高い天のように建て、とこしえの基を据えた地のように建てられた」。
・日本は日清・日露の戦役を国の存亡をかけて戦った。それは自衛のための戦争であった。その勝利により、朝鮮と満州が与えられると、今度は中国本土を欲しがり、日中・日米戦争の泥沼に突入して行き、国を滅ぼした。与えられたものに満足できず、より多くを求める罪=貪りこそ、国を、そして人を滅ぼしていく。
-詩編78:40-42「どれほど彼らは荒れ野で神に反抗し、砂漠で御心を痛めたことか。繰り返し神を試み、イスラエルの聖なる方を傷つけ、御手の力を思わず、敵の手から贖われた日を思い起こさなかった」。
・神は無から有を生じさせる方であり、備えられる方である。荒野の時は、過酷な試練の時でありながら、そのような神を肌身で知る時であった。そして神の業を知り、神の実在を目の当たりにしながら、神に反逆し、罪を犯し続けたのがイスラエルの歴史であり、人間の歴史でもある。歴史を知ることは、自分たちの罪を考え、悔い改めることだ。
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