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トップ  >  エゼキエル書  >  2010年12月16日祈祷会(エゼキエル1章、エゼキエルの召命)
1.エゼキエルの見た幻

・前598年、イスラエルはバビロニア軍に国を占領され、王や貴族、祭司たちは捕囚として敵地バビロンに連行された。数千人を超える第一次捕囚民の中に、祭司エゼキエルがいた。捕囚から5年目、30歳の時に、彼は捕囚地で召命を受けた。前593年、エルサレムではゼデキヤがエホヤキン王の後を継いで王となり、エレミヤの活動していた時代であった。
-エゼキエル1:1-3「第三十年の四月五日のことである。私はケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、私は神の顕現に接した。それは、ヨヤキン王が捕囚となって第五年の、その月の五日のことであった。カルデアの地ケバル川の河畔で、主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ」。
・エゼキエルは祭司の家系であり、30歳になれば祭司に任命される。おそらくは祭司の任職式典の礼拝式中に突如、雷雲が現れ、彼は稲妻の中に神を見る。エゼキエル書は敵地で書かれた黙示文学であり、多くの幻の中に啓示が示される。
-エゼキエル1:4「私が見ていると、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に光を放ちながら吹いてくるではないか。その中、つまりその火の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった」。
・その戦車は翼を持つ4つの生き物によって引かれていた。それは人、獅子、牛、鷲の顔をしていた。
-エゼキエル1:5-14「その中には、四つの生き物の姿があった・・・彼らは人間のようなものであった。それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた・・・四つとも右に獅子の顔、左に牛の顔、そして四つとも後ろには鷲の顔を持っていた・・・生き物の姿、彼らの有様は燃える炭火の輝くようであり、松明の輝くように生き物の間を行き巡っていた。火は光り輝き、火から稲妻が出ていた。そして生き物もまた、稲妻の光るように出たり戻ったりしていた」。
・次に四つの生き物に引かれる戦車が見えた。エゼキエルは戦車の幻を記す。
-エゼキエル1:15-21「私が生き物を見ていると、四つの顔を持つ生き物の傍らの地に一つの車輪が見えた・・それらが移動するとき、四つの方向のどちらにも進むことができ・・・た。車輪の外枠は高く、恐ろしかった。車輪の外枠には、四つとも周囲一面に目がつけられていた・・・生き物が進むときには車輪も進み、生き物が止まるときには車輪も止まった。生き物が地上から引き上げられるとき、車輪も共に引き上げられた。生き物の霊が、車輪の中にあったからである」。

2.幻の意味

・その戦車には神が乗っておられた。エゼキエルは幻の中で神に出会った。
-エゼキエル1:22-27「生き物の頭上には・・・水晶のように輝く大空のようなものがあった・・・生き物の頭上にある大空の上に、サファイアのように見える王座の形をしたものがあり、王座のようなものの上には高く人間のように見える姿をしたものがあった。腰のように見えるところから上は、琥珀金が輝いているように私には見えた・・・腰のように見えるところから下は、火のように見え、周囲に光を放っていた」。
・人々にとって、神はエルサレム神殿に鎮座される神であった。そのエルサレムが敵に占領された。捕囚地の人々は自分たちの神がバビロンの神に負けたと考えた。しかしその神がバビロンにも現れた。この幻を通してエゼキエルは神がイスラエルのみの神ではなく、天地を支配される方であることを知る。このバビロンの地での神顕現が民族の運命を大きく変えて行く。そこにエゼキエル召命の意味がある。
・預言者の多くは幻を通して召命を受ける。イザヤもエレミヤもパウロもそうであった。神との出会いの体験を表現する時、それは幻にならざるを得ないのであろう。エゼキエルは戦車に乗っておられる神の召命の言葉を聞いた。
-エゼキエル1:28-2:5「周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。私はこれを見てひれ伏した。そのとき、語りかける者があって、私はその声を聞いた。彼は私に言われた『人の子よ、自分の足で立て。私はあなたに命じる』。彼が私に語り始めた時、霊が私の中に入り、私を自分の足で立たせた。私は語りかける者に耳を傾けた。主は言われた『人の子よ、私はあなたを、イスラエルの人々、私に逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様私に背いて、今日この日に至っている。恥知らずで、強情な人々のもとに、私はあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう』」。
・彼は名前ではなく「人の子」と呼ばれる。ベン・アダム、死すべき者の意味であろう。預言者の任務は神から預かった言葉を語ることである。聴衆は無責任であり、頑固であり、預言者の言葉を聞かない。しかし彼は語らねばならない。「彼らが聞き入れようと、また拒もうと」、語ることが預言者の使命なのである。牧師も預言者の職務を継承する者であれば、聴衆の人気を考えてはいけない。聴衆におもねる偽預言者は壁に漆喰で上塗りするような無益の存在である(22:28)。
-エゼキエル2:6-7「人の子よ、あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、彼らを恐れてはならない。またその言葉を恐れてはならない。彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたは私の言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ」。

*エゼキエル書1章参考資料〜エゼキエルの見た幻と4福音書

四福音記者のイメージとして、天使(人間)〈マタイ〉、ライオン〈マルコ〉、牛〈ルカ〉、鷲〈ヨハネ〉などで描かれたりする。紀元70年から100年の間に四福音書は書かれたと考えられているが、啓示を通して自己の本質、その由来と行く末を認識することによる救済を主張したグノーシス主義者は、多数の福音書を書き上げていく。このような中で、リヨンの司教エイレナイオス(イレネオ)は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書こそが「教会の柱、土台、生命の息」であると主張して、次のように述べる「万物の造り主であって、ケルビムの上に座し、万物を統合する御言が、人々に現れた時、四つの形をなしているが、一つの霊によって統合されている福音書を私たちに与えたのは明らかである。ケルビムは四つの顔を持ち、その顔は神の子の働きを示す。すなわち、第一の生物は獅子のように、その実行的、指導的、王者的役割を表している。第二のものは、牛のように、犠牲的、祭司的職種を表している。第三のものは、人の顔を持ち、人の形における御言の顕現を最も明らかに示している。第四のものは、飛ぶ鷲のように、教会に降った聖霊の賜物を明示している。従って、福音書はこれら四者に一致し、キリストがそれらのうちにおられるのである。」(『異端反駁』3・11・8)
 
これはその後も受け継がれていき、ヴルガタ訳と呼ばれた聖書のラテン語の訳者ヒエロニムス(347〜420年)は次のように言った。「この四つの福音書は、はるか以前に予言されていたことをエゼキエル書が証ししている。その書の第一の幻は次のように綴られている。『またその中には、四つの生き物に類似したようなものがあった。それらの顔は人間の顔、獅子の顔、若い雄牛の顔、そして鷲の顔であった』(エゼ1・5、10)。第一の人間の顔はマタイを意味している。彼は、『アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図』(マタイ1・1)と、人間としての出生から書き始めている。第二の顔はマルコを意味している。そこでは、『荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整えよ。その道筋をまっすぐにせよ』(マルコ1・3)と、砂漠で吼える獅子の声が聞こえる。第三の若い雄牛の顔は、祭司ザカリアから書き起こしている福音記者ルカを予示している。第四の顔は福音記者ヨハネを予示している。彼は、鷲の翼を得て、より高きところへと急ぎ、神の御言について論じている」(『マタイ福音書注解』序文)。

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