すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2010年12月15日祈祷会(詩編77篇、まなざしを自己から外へ向けよ)
1.自分の苦しみを見つめた時、救いはなかった

・詩編77篇は不思議な詩だ。前半部(1-11節)では呼んでも答えられない神の沈黙の中で詩人はもだえている。後半部(12-21節)では、神がかつてして下さった不思議な御業を思い起こすことによって希望の光を見出す。77篇は呼んでも答えられない神に対する嘆きから始まる。
-詩編77:2-4「神に向かって私は声をあげ、助けを求めて叫びます。神に向かって私は声をあげ、神は私に耳を傾けてくださいます。苦難の襲う時、私は主を求めます。夜、私の手は疲れも知らず差し出され、私の魂は慰めを受け入れません。神を思い続けて呻き、私の霊は悩んでなえ果てます」。
・「苦難の日に私は主を求めたが、主は答えて下さらなかった」と詩人は嘆く。事業が破たんの瀬戸際にある時、人は平常心ではいられないだろう。家族が崩壊の危機にある時、安らかな眠りは彼から取り去られるだろう。世の出来事が大きくなる時、神は小さく頼りなくなる。かつての平和な日々は取り去られた。いくら祈っても事態は改善しない。
-詩編77:5-7「あなたは私のまぶたをつかんでおられます。心は騒ぎますが、私は語りません。いにしえの日々を私は思います、とこしえに続く年月を。夜、私の歌を心に思い続け、私の霊は悩んで問いかけます」。
・自己の苦しみに心が集中する時、神は見えなくなる。主は憐れみを閉ざされたのだろうか、神は私たちを捨てられたのだろうか。詩人は煩悶する。この詩の背景には民族の見捨てである捕囚の苦しみがあるのかもしれない。
-詩編77:8-11「主はとこしえに突き放し、再び喜び迎えてはくださらないのか。主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。神は憐れみを忘れ、怒って、同情を閉ざされたのであろうか。私は言います『いと高き神の右の御手は変わり、私は弱くされてしまった』。

2.神の御業に目を転じた時、救いが来た

・12節が転機の言葉である。詩人は気づく、神が私たちを捨てられたのではなく、私たちが神から離れてしまったのではないか。自分のことばかりを考えていた時、神の姿は隠されていた。しかし、神を見つめた時、神の姿が見えて来た。
-詩編77:12-16「私は主の御業を思い続け、いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け、あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら、あなたの御業を思いめぐらします。神よ、あなたの聖なる道を思えば、あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか。あなたは奇跡を行われる神、諸国の民の中に御力を示されました。御腕をもって御自分の民を、ヤコブとヨセフの子らを贖われました」。
・「自分が生きている」と思う時、人は不条理な現実の中で苦しむ。しかし「自分が生かされている」ことを知った時、神が見えてくる。神は生きて働いておられる、私たちの目には見えないだけなのだ。ヨブも「自分の苦しみは不当だ」と思い悩んだ時、神を見失った。しかしヨブの思いにかかわらず神が働いておられることを知った時、彼は悔い改める。
-ヨブ38:1-18「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは・・・私はお前に尋ねる、私に答えてみよ。私が大地を据えたとき、お前はどこにいたのか・・・ お前は海の湧き出るところまで行き着き、深淵の底を行き巡ったことがあるか。死の門がお前に姿を見せ、死の闇の門を見たことがあるか。お前はまた、大地の広がりを隅々まで調べたことがあるか。そのすべてを知っているなら言ってみよ」。
・77編の詩人も、神の創造の業に思いを馳せた時、自分の悩みがいかに卑小であったかを知る。
-詩編77:17-19「大水はあなたを見た。神よ、大水はあなたを見て、身もだえし、深淵はおののいた。雨雲は水を注ぎ、雲は声をあげた。あなたの矢は飛び交い、あなたの雷鳴は車のとどろきのよう。稲妻は世界を照らし出し、地はおののき、震えた」。
・またかつてエジプトからイスラエルの民を贖いだして下さった神の業を思い起こした時、詩人は自分の悩みの卑小さを知った。「人にはできないが神には出来る」、生病老死の苦しみは当然の出来ごとであり、神に委ねれば良いのだ。
-詩編77:20-21「あなたの道は海の中にあり、あなたの通られる道は大水の中にある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。あなたはモーセとアロンの手をとおして、羊の群れのように御自分の民を導かれました」。
・詩編77編の中核の言葉は「思い起こす」(4節、12節)である。自己を中心に思い起こす時、「かつては良かったのに今は惨めだ」と神が憐れみと慈しみを閉じてしまわれたように思えた。しかし神を中心に思い起こした時、不思議な御業を通して神の働きが見えてきた。内村鑑三は自伝の中で、彼の第二の回心を記す。「何かをしなければ、変わらなければ」、と思いつめて、自分自身の姿にこだわり続けていた内村は、恩師のシーリー先生(アマースト大学学長)の言葉によって、魂の覚醒を経験し、十字架の主イエスに向かって解き放たれた。
-シーリー先生の言葉「内村、君は君のうちをのみ見るからいけない。君は君の外を見なければいけない。何故己に省みる事をやめて、十字架の上に君の罪を贖いたまいしイエスを仰ぎみないのか。君の為すところは、小児が植木を鉢に植えて、その成長を確かめんと欲して、毎日その根を抜いて見ると同然である。何ゆえにこれを神と日光とに委ねたてまつり、安心して君の成長を待たぬのか」。
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