すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  哀歌  >  2010年11月18日祈祷会(哀歌2章、主よこれほどの懲らしめが)
1.エルサレムの徹敵的な破壊

・哀歌第2章も1章と同じく「エーカー(ああ、何故)」という言葉で始まる。エルサレムの破壊と荒廃はすさまじい。その破壊を先導されるのは主である。主が自らの神殿を破壊され、自らの民を滅ぼされる。「ああ」と言う嘆きしか出ない。
-哀歌2:1-3「なにゆえ、主は憤り、おとめシオンを卑しめられるのか。イスラエルの輝きを天から地になげうち、主の足台と呼ばれたところを、怒りの日に、見放された。ヤコブの人里をすべて、主は容赦せず圧倒し、憤って、おとめユダの砦をことごとく破壊し、この国を治める者、君侯らを地に打ち倒して辱められた・・・御怒りはヤコブに対して烈火となり、炎となって焼き尽くした」。
・主ご自身が私たちの敵となられた。主はご自身の祭壇も、ご自身の聖所をすら捨てられた。
-哀歌2:6-7「シオンの祭りを滅ぼし、仮庵をも、園をも荒廃させられた。安息日をも、祭りをもシオンに忘れさせ、王をも、祭司をも激しい怒りをもって退けられた。主は御自分の祭壇をすら見捨て、御自分の聖所をすら見捨て、城郭をも城壁をも、敵の手に渡された。敵は主の家で喚声をあげる、あたかも祭りの日のように」。
・私たちは地に黙して泣いた。子どもたちは飢餓の中で死んでいった。
-哀歌2:11-12「私の目は涙にかすみ、胸は裂ける。私の民の娘が打ち砕かれたので、私のはらわたは溶けて地に流れる。幼子も乳飲み子も町の広場で衰えてゆく。幼子は母に言う、パンはどこ、ぶどう酒はどこ、と。都の広場で傷つき、衰えて、母のふところに抱かれ、息絶えてゆく」。
・詩人はこの悲しみの中で、主を責めることをしない。この災いが自分たちの罪のゆえに下されたことを知るからだ。祭司たちは平和がないのに「平和、平和」と繰り返し、悔い改めよと叫ぶエレミヤの言葉を私たちは聞こうとはしなかった。
-哀歌2:14「預言者はあなたに託宣を与えたが、むなしい、偽りの言葉ばかりであった。あなたを立ち直らせるには、一度、罪をあばくべきなのに、むなしく、迷わすことをあなたに向かって告げるばかりであった」。
・エゼキエルは偽預言者を、「壁を漆喰で上塗りする者」と非難した。聞くべきは「平和だ、平和だ」という声ではない。現代の信仰もそうだ。「主よ、主よ」と呼ぶ者が救われるのではなく御心を行う者が救われるのだ(マタイ7:21-23)。
-エゼキエル13:10-14「平和がないのに彼らが『平和だ』と言って私の民を惑わすのは、壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ。漆喰を上塗りする者に言いなさい『それは、はがれ落ちる』と・・・私は憤りをもって、暴風を起こし、怒りをもって豪雨を降らせ、怒り狂って雹を石のように降らせ、すべてを破壊する。お前たちが漆喰を塗った壁を私は破壊し、地面に打ちつけて、その基礎をむき出しにする・・・その時、お前たちは、私が主であることを知るようになる」。

2.その中に神の怒りを見て行く

・「主は計画したことを実現させ、約束されたことを成就される方だ」。私たちは今その成就を見ている。しかしまた主は砕かれた魂を顧みて下さる。だから主の前に立ち、命乞いをせよ、主が憐れんで下さるかもしれない。
-哀歌2:18-19「おとめシオンの城壁よ、主に向かって心から叫べ。昼も夜も、川のように涙を流せ。休むことなくその瞳から涙を流せ。立て、宵の初めに。夜を徹して嘆きの声をあげるために。主の御前に出て、水のようにあなたの心を注ぎ出せ。両手を上げて命乞いをせよ、あなたの幼子らのために。彼らはどの街角でも飢えに衰えてゆく」。
・主に向かって叫べ「あなたの娘がその赤子を煮炊きして食べています。あなたの祭司がその神殿で殺されています。主よ、もう十分ではないでしょうか」と。
-哀歌2:20-22「主よ、目を留めてよく見てください。これほど懲らしめられた者がありましょうか。女がその胎の実を、育てた子を食い物にしているのです。祭司や預言者が主の聖所で殺されているのです。街では老人も子供も地に倒れ伏し、おとめも若者も剣にかかって死にました。あなたは、ついに怒り、殺し、屠って容赦されませんでした・・・主が怒りを発したこの日に、逃げのびた者も生き残った者もなく、私が養い育てた子らはことごとく敵に滅ぼされてしまいました」。
・詩人は悲劇の中で泣くが、しかし神を責めない。むしろ自分たちの罪科のゆえにここ苦しみが与えられたと受け止めている。だから彼は神に嘆願することが出来る。彼はまだ信仰を失っていない。だから第三の歌でその信仰を告白出来る。
-哀歌3:31-33「主は、決して、あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」。
・悲しみを嘆くだけではそこに何も生まれない。問題の本質は私たちの罪であり、悪いのは敵でも神でもない。この罪を認めた時に救いが来る。原爆被災者・栗原貞子さんの詩はそのことを私たちに知らせる。
−栗原貞子・ヒロシマというとき「〈ヒロシマ〉というとき、〈ああ ヒロシマ〉とやさしくこたえてくれるだろうか。〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉、〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉・・・〈ヒロシマ〉といえば血と炎のこだまが 返って来るのだ。〈ヒロシマ〉といえば〈ああ ヒロシマ〉とやさしくは返ってこない。アジアの国々の死者たちや無告の民がいっせいに犯されたものの怒りを噴き出すのだ。〈ヒロシマ〉といえば〈ああヒロシマ〉とやさしいこたえがかえって来るためには、わたしたちはわたしたちの汚れた手をきよめねばならない」。
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