すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  哀歌  >  2010年11月11日祈祷会(哀歌1章、ああ)
1.エーカー(ああ、何故に)

・哀歌は古くはエレミヤ哀歌と呼ばれた。ギリシャ語聖書冒頭に「イスラエルが捕らわれとなって引き立てられ、エルサレムの荒廃の後、エレミヤは座して泣きながら、エルサレムのために歌った」とあるからだ。おそらくは他の人の作であろうが、著者はエルサレムの滅亡を目撃し、その中に神の鞭を見る。冒頭の言葉は「エーカー」、「ああ、何故に」である。かつては高貴の町と呼ばれたエルサレムが今は廃墟となり、夫を失い、子を奪われた、やもめのように嘆いている。
-哀歌1:1-2「なにゆえ、独りで座っているのか、人に溢れていたこの都が。やもめとなってしまったのか、多くの民の女王であったこの都が。奴隷となってしまったのか、国々の姫君であったこの都が。夜もすがら泣き、頬に涙が流れる。彼女を愛した人のだれも、今は慰めを与えない。友は皆、彼女を欺き、ことごとく敵となった」。
・バビロニアによるエルサレム破壊はすさまじく徹底的であった。指導者たちは鎖で縛られて異教の地に捕囚となり、エルサレムに残った人々には、駐留兵士や周辺諸国の民の略奪と暴行が繰り返し襲った。男は殺され、女は凌辱され、飢餓に苦しむ人々は死んだわが子の肉を煮炊きして食べた。そのような地獄絵の中で人々は苦難の意味を求めて行った。
-哀歌1:3-5「貧苦と重い苦役の末にユダは捕囚となって行き、異国の民の中に座り、憩いは得られず、苦難のはざまに追い詰められてしまった。シオンに上る道は嘆く、祭りに集う人がもはやいないのを。シオンの城門はすべて荒廃し、祭司らは呻く。シオンの苦しみを、おとめらは悲しむ。シオンの背きは甚だしかった。主は懲らしめようと、敵がはびこることを許し、苦しめる者らを頭とされた。彼女の子らはとりことなり、苦しめる者らの前を、引かれて行った」。
・著者はこの苦しみを自分たちが罪を犯したゆえに神が下されたと受け止める。しかしそれでもあまりの悲惨さではないか、誰も彼らに同情する者もいない、敵は自分たちを不潔極まりない襤褸切れのように嘲笑する。
-哀歌1:7-9「苦しめる者らの手に落ちた彼女の民を助ける者はない。絶えゆくさまを見て、彼らは笑っている。エルサレムは罪に罪を重ね、笑いものになった。恥があばかれたので重んじてくれた者にも軽んじられる。彼女は呻きつつ身を引く。衣の裾には汚れが付いている。彼女は行く末を心に留めなかったのだ。落ちぶれたさまは驚くばかり。慰める者はない。『御覧ください、主よ、私の惨めさを、敵の驕りを』」。
・敵はエルサレム神殿に侵略し、聖なる場所を汚した。神の民の誇りは徹底的に砕かれる。
-哀歌1:10「宝物のすべてに敵は手を伸ばした。彼女は見た、異国の民が聖所を侵すのを。聖なる集会に連なることを主に禁じられた者らが」。

2.私たちの出来事としての哀歌

・あまりの惨めさに私は泣かざるを得ない。主はエルサレムを火に焼かれ、指導者を敵の手に渡し、若者を殺されるに任せ、おとめが凌辱されるに任せられた。酒ぶねが踏まれ、血は大地にまかれた。
-哀歌1:13-17「主は高い天から火を送り、私の骨に火を下し、足もとに網を投げて私を引き倒し、荒廃にまかせ、ひねもす病み衰えさせる・・・主の軛を首に負わされ、力尽きて私は倒れ、刃向かうこともできない敵の手に、引き渡されてしまった。私のもとにいる力ある者を主はすべて退けられた。私に対して時を定め、若者らを砕かれた。主は、酒ぶねを踏むかのように娘ユダのおとめらを踏みにじられた。それゆえ私は泣く。私の目よ、私の目よ、涙を流すがよい。慰め励ましてくれる者は、遠く去った。敵は勢いを増し、私の子らは荒廃に落ちてゆく・・・主は敵に命じてヤコブを包囲させられた。エルサレムは敵の中で、笑いものになっている」。
・その中で彼は自分たちの罪を認めて行く。「私たちの罪のゆえに主は私たちを砕かれた、主は正しい」と。
-哀歌1:18「主は正しい。私が主の口に背いたのだ。聞け、諸国の民よ、見よ、私の痛みを。私のおとめらも若者らも、捕えられ、引かれて行った」。
・「主は正しい。だから私たちはこの痛みを受け入れて行く。しかし主よ、勝ち誇り、暴虐と略奪を繰り返す者どもをいつの日かあなたが懲らしめて下さるように」と著者は祈っていく。邪悪な者たちの罪が糺されていくのは正義の実現であり、聖書はそれを願うことを禁じない。
-哀歌1:21-22「聞いて下さい、私の呻きを・・・敵は皆、私の受けた災いを耳にして、あなたの仕打ちを喜んでいます。彼らにも定めの日を来らせ、私のような目に遭わせて下さい。敵の悪事が御前に届きますように。あなたの懲らしめを受けますように。あなたに背いた私がこんなにも懲らしめられたように。私はこうして呻き続け、心は病に侵されています」。
・これはエルサレム滅亡時だけに起こった出来事ではない。南京事件の中国民衆の嘆きも、ソ連侵攻時の満州難民の叫びも、ベトナムの無差別爆撃の痛みをも歴史は経験している。そのような出来事が自分に起きた時、人はどうするのだろうか。それを自分の罪の故と受け入れ、未来に希望を持つことが出来るだろうか。哀歌は絶望の中に希望を見出していく。
-哀歌3:28-32「軛を負わされたなら黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる」。

*絶望の中で希望を見出していった二人の婦人たち〜今日の哀歌

-野村伊都子さんの哀歌「女学生の頃、矢内原忠雄・余の尊敬する人物の中の「エレミヤ」という文字に心ひかれていた。しかし戦争が始まり、いつしか忘れていた。やがて敗戦を迎え、そのショックから結核となった。厄介者でしかない長患いの悲惨から、自分で命を断とうと考え、今日が最後と持ち物を整理していると、ほこりの積もった聖書が出てきた。ある人が置いていったもので、パラッとめくってみると、そこに「エレミヤ」という言葉があった。「何という懐かしい文字、懐かしい言葉。かつて、響きが好きで忘れ得なかった文字、言葉となった『エレミヤ』が、こんなところにいて死の床の私を救うために待ちうけてくれていたとは。私は食い入るようにしてそのまま聖書に読み入りました」。

-鳥飼春菜さんの哀歌(曽野綾子「哀歌」から)
「主人公の鳥飼春菜は所属する修道会に命じられて部族対立の続くアフリカの国ルワンダへ赴任した。彼女は、教会や小中学校を併設する修道院で、院長や現地人の修道女たちに助けられながら働いている。だがルワンダでは、多数派部族(フツ族)の激しい「憎悪」に基づく少数派(ツチ族)に対するジェノサイド(集団虐殺)が起こり、彼女も巻き込まれる。ツチ族を陰に陽に支援していた隣国の大統領が謀殺されたことから、フツ族の民兵組織が軍を後ろ盾にツチ族及びツチ族の血を継ぐ者への暴行、虐殺、略奪を開始し、大量の避難民を受け入れた修道院や教会でも彼らは暴虐の限りを尽くす。そして、春菜はその渦中で従順な庭師と思っていた男にレイプされる。身も心も疲弊しきって帰国した春菜を待っていたのは、冷淡とも思える修道会の処遇であり、妊娠であった。そんな失意と絶望の春菜を救ってくれたのは、アフリカから脱出する際ホテルで声をかけてくれた美術商の田中一誠であった。春菜に同情した彼は、損得抜きで春菜の生活を助け、生まれてくるであろう「黒い赤ん坊」との生活を決意させる。「鳥飼さんは必ず受けた運命を受諾なさる。だからそれに必要なお手伝いをしよう」。その一言で春菜は子を生む事を決め、新しい人生に旅たつ。その春菜の相談相手になった神父は言う「神は御自分で為されたことには必ず責任を問われる。神は今回の出来事を通して、あなたを別の任務に使うようにされたのではないか。修道女なら誰にも出来る。しかし、神はあなたに別の仕事をお望みになった」。
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