すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2010年11月10日祈祷会(詩編72篇、公正と正義を王に)
1.王の即位式の歌

・詩編72篇は王の即位式の時に歌われた詩であろう。詩人は「神よ、あなたの公正を王に、あなたの正義を王の子に」と祈る。公正(ミシュパート、裁き)と正義(ツェダカー、恵みの御業)こそ、人々が王に望むものであった。
-詩編72:1-2「神よ、あなたによる裁き(ミシュパート)を王に、あなたによる恵みの御業(ツェダカー)を王の子にお授けください。王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ、あなたの貧しい人々を裁きますように」。
・公正と正義こそ神の本質であり、神から支配を託されている王が為すべきことであった。それこそ創造の神の意志であり、それが正しくなされる時、山々も岡も豊かな恵みでそれに答えると詩人は歌う。
-詩編72:3-4「山々が民に平和をもたらし、丘が恵みをもたらしますように。王が民を、この貧しい人々を治め、乏しい人の子らを救い、虐げる者を砕きますように」。
・逆に人が公正と正義を為さない時、自然もまた荒廃する。人間の悪のゆえに、大地が枯渇し、植物も動物も死滅していくとエレミヤは告発した。アマゾンの熱帯雨林は乱開発により急速に破壊が進み、消滅が危惧されている。熱帯雨林は大量の二酸化炭素を吸収し、酸素を創り出す、「地球の肺」と言われている。この消失は人間の生存環境を破壊してしまう。
-エレミヤ12:4「いつまで、この地は乾き、野の青草もすべて枯れたままなのか。そこに住む者らの悪が、鳥や獣を絶やしてしまった。まことに、彼らは言う『神は我々の行く末を見てはおられない』と」。
・人間の悪が自然を破滅させずにおかないとすれば、世界の回復は人間と自然との調和を抜きにしてはありえない。ノアの洪水は人により大地が呪われたことの象徴であるが、洪水後の世界においては神が地上のあらゆる生き物と永遠の契約を結ぶことによって調和が回復される(創世記9:9-17)。詩編72篇の祈りも人間と自然の調和を願う。
-詩編72:5-7「王が太陽と共に永らえ、月のある限り、代々に永らえますように。王が牧場に降る雨となり、地を潤す豊かな雨となりますように。生涯、神に従う者として栄え、月の失われる時までも、豊かな平和に恵まれますように」。

2.公正と正義を王に

・後半からは全世界に及ぶ王の支配が祈られる。「海から海まで」、「大河から地の果てまで」、地中海世界が当時の人々にとって世界であった。その世界を支配したソロモンの栄華がここで偲ばれている。
-詩編72:8-11「王が海から海まで、大河から地の果てまで、支配しますように。砂漠に住む者が彼の前に身を屈め、敵が塵をなめますように。タルシシュや島々の王が献げ物を、シェバやセバの王が貢ぎ物を納めますように。すべての王が彼の前にひれ伏し、すべての国が彼に仕えますように」。
・ソロモンは就任に当たり、「民を正しく裁き、善悪を見分ける知恵を与えたまえ」と祈った(列王記上3:7-9)。以後の王もそのような祈りを為すことが出来ますようにと詩人は祈る。
-詩編72:12-15「王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を、助けるものもない貧しい人を救いますように。弱い人、乏しい人を憐れみ、乏しい人の命を救い、不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように。王の目に彼らの血が貴いものとされますように・・・彼のために人々が常に祈り、絶え間なく彼を祝福しますように」。
・王が公正と正義を行う時、大地もそれに応えて、豊かな実を結び、人々の数も増やされていく。
-詩編72:16-17「この地には、一面に麦が育ち、山々の頂にまで波打ち、その実りはレバノンのように豊かで、町には人が地の青草ほどにも茂りますように。王の名がとこしえに続き、太陽のある限り、その名が栄えますように。国々の民は皆、彼によって祝福を受け、彼を幸いな人と呼びますように」。
・しかしこのように歌われる王の姿は理想ではあっても現実ではなかった。現実の王たちは権力を欲しいままに貪り、民を抑圧し、エジプトやメソポタミヤの強国の軍事力に怯え、終には国を滅ぼしてしまう。
-エゼキエル34:2-5「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは・・・お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった」。
・人々は理想の王を求めたが現実にはいなかった。しかし神が公正と正義の神であられる限り、そのような王を与えて下さると信じ、預言者たちはその王をメシアと呼ぶようになった。新約記者はそのメシアこそイエスだと信じた。
-ルカ4:16-21「イエスはお育ちになったナザレに来て・・・聖書を朗読しようとしてお立ちになった・・・『主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由に・・・するためである』・・・イエスは『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」。
・私たちはこのイエスの弟子として召された。私たちが自己の救いに終始していたら、それは弟子としての役割を果たしていない。「公正と正義」のために働くことが、何らかの行動がそこに求められる。
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