すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2010年10月27日祈祷会(詩編70篇、小さき者を顧みられる主)
1.迫害されている者の祈り

・詩編70篇は敵の攻撃にさらされた信仰者が神に祈り求める詩である。詩人には危難が迫り、「すぐに来て下さい」と彼は祈る。この詩には短い表詞「記念に(レ・ハズキール)」が付いているが、その指示する内容はわからない。
−詩編70:2「神よ、速やかに私を救い出し、主よ、私を助けてください」。
・その危難とは、「彼の命を狙う者」が、彼が災いに会ったことを機に、ここぞとばかりに彼を責め立てるその危難である。詩人は彼を責め立てる者たちがその行為を恥じて退くように、祈り求めている。
−詩編70:3-4「私の命をねらう者が恥を受け、嘲られ、私を災いに遭わせようと望む者が侮られて退き、はやし立てる者が恥を受けて逃げ去りますように」。
・詩人が何故責められているかはわからない。同じ表詞「記念に」を持つ、詩編38篇は重い病を負った信仰者の嘆きの歌で、内容的近似もあり、詩人は人から忌み嫌われる病気(例えばらい病)に罹って孤立しているのかもしれない。
−詩編38:12-13「疫病にかかった私を愛する者も友も避けて立ち、私に近い者も遠く離れて立ちます。私の命をねらう者は罠を仕掛けます。私に災いを望む者は欺こう、破滅させよう、と決めて、一日中それを口にしています」。
・疾病(へブル語ネガア)は「撃たれる」の意味である。神によって撃たれた、特定の疾病は神罰と考えられていた。イエスの時代、盲目は罪の結果と人々が考えていたことがヨハネ伝からわかる。しかしイエスはこれを否定された。
−ヨハネ9:1-3「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた『この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか』。イエスはお答えになった『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」。
・70篇の詩人も重い病に罹り、周りの者たちは彼を神に呪われた者として、排斥し辱めたのであろう。「神は正しい者を祝福し、悪人を罰せずにはおかない」という応報思想が、人生の幸不幸を説明する原理として普遍化されると、困窮し災厄に見舞われた者を、社会的に排除するようになる。イエスの時代も多くの病人が病の苦しみと共に、排除の苦しみに会った。長血を患う女性も汚れた者として排斥されたが、イエスは彼女を温かく迎え入れられた。
−ルカ8:43-48「十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった・・・イエスは言われた『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』」。

2.小さき者の祈りを顧みられる主

・詩人は自分が苦難を味わった故に、他者の苦難を理解する。彼は「あなたを訪ね求める人が喜び祝い、御救いを愛する人が賛美できますように」と祈る。個人の苦しみがここで連帯され、「我らの苦しみからの救い」の祈りとなる。
−詩編70:5「あなたを尋ね求める人があなたによって喜び祝い、楽しみ、御救いを愛する人が神をあがめよといつも歌いますように」。
・彼は主に救いを求めて祈る。何故ならば主は貧しい者、苦しむ者を放置されない方だと信じるゆえである。
−詩編70:6「神よ、私は貧しく、身を屈めています。速やかに私を訪れてください。あなたは私の助け、私の逃れ場。主よ、遅れないでください」。
・聖書の神は小さき者を保護し、顧みられる方である。出エジプト記は激しい口調で、寄留者ややもめや孤児の権利を擁護する。
−出エジプト記22:20-23「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼が私に向かって叫ぶ場合は、私は必ずその叫びを聞く。そして、私の怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは孤児となる」。
・このような戒めを持っている社会においても排除は起こる。人間の罪の故である。しかし、「主は貧しい者、苦しむ者を放置されない」という信仰は聖書に一貫し、イエスも継承されている。イエスは「小さき者をつまずかせる行為は激しく罰せられる」と言われた。
−マルコ9:42「私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」。
・この詩編は伝統的に受難節に読まれてきた。十字架につけられた主イエスの祈りと通じるものがあるからだろう。
−マルコ15:29-32「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った『おやおや、神殿を打ち倒し三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ』。同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った『他人は救ったのに自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう』。一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった』。
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