すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2010年10月6日祈祷会(詩編67篇、私たちから諸国民へ)
1.私たちへの祝福

・詩編67篇には「私たちへの祝福」を願う祈りと、「諸国民への祝福」を願う祈りの双方が混合されている。最初に出てくるのは、「私たちへの祝福」を求める祈りだ。
-詩編67:2「神が私たちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きを、私たちに向けてくださいますように」。
・この祈りの原型は民数記にある「アロンの祝福」であろう。祭司(アロンの子孫たち)による神殿に集まった民への祝福の言葉がここにある。この祝福は今日の教会でも「祝祷」として用いられている。
-民数記6:24-27「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」。
・しかし、祈りは「私たち」にとどまらず、「諸国民の救い」へと展開して行く。
-詩編67:3「あなたの道をこの地が知り、御救いをすべての民が知るために」。
・ここでは神の業がイスラエルを超えて、すべての国々、地上のあらゆる国民に及ぶべきものと理解されている。イスラエルの信仰が民族神(私たちの神)から、天地の神(諸国民の神)へと広がる契機になったのはバビロン捕囚である。バビロンの地にも「私たちの神がおられた」という発見こそが、イスラエルを民族信仰から解放して行く。
-申命記7:6-8「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに・・・主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオの・・・家から救い出されたのである」。
・民の現実は決して「聖なる民」にふさわしいものではなかった。約束の地に入ってから国が滅びるまで、彼らは背信の民であった。その経緯を示す歴史書は王国の滅亡を民の背きに対する主の審判として回顧する。
-列王記下21:12-14「見よ、私はエルサレムとユダに災いをもたらす・・・私はサマリアに使った測り縄とアハブの家に使った下げ振りをエルサレムに用いる。鉢をぬぐい、それをぬぐって伏せるように、私はエルサレムをぬぐい去る。私はわが嗣業の残りの者を見捨て、敵の手に渡す。彼らはそのすべての敵の餌食となり、略奪の的となる」。

2.諸国民への祝福

・捕囚から帰還したイスラエルの民は神殿を再建し、宗教共同体として生きて行くが、政治的にはペルシャ帝国の支配下におかれたままであった。このような苦難の歴史の中で、彼らは自分たちの罪の赦しを祈っていくが、最初は彼らを苦しめる諸国民に対する報復を願っていた。
-詩編79:9-10「御名のために、私たちを救い出し、私たちの罪をお赦しください・・・あなたの僕らの注ぎ出された血に対する報復を、異国の民の中で、私たちが目の前に見ることができますように」。
・その彼らが変えられたのは、主が救い主(メシア)を遣わして下さるという希望を持ってからであった。弱小ゆえに、人の業に頼らず神に依り頼む信仰が、彼らに地上のあらゆる国民を視野に入れた平和思想を生みだしていく。それがゼカリヤ書の預言だ。
-ゼカリヤ9:9-10「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。私はエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」。
・このメシア像がやがて平和の主イエスに結実していく。詩編67篇には報復願望を克服した民の祈りが記されている。
-詩編67:4-6「神よ、すべての民があなたに感謝をささげますように。すべての民が、こぞってあなたに感謝をささげますように。諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように。あなたがすべての民を公平に裁き、この地において諸国の民を導かれることを。神よ、すべての民があなたに感謝をささげますように」。
・7節から「大地の実り」が歌われる。豊作は神の祝福の象徴であるが、戦乱や略奪の中ではその祝福も呪いに代わっていく。平和があってこそ大地の実りは祝福になる。
-詩編67:7-8「大地は作物を実らせました。神、私たちの神が、私たちを祝福してくださいますように。神が私たちを祝福してくださいますように。地の果てに至るまで、すべてのものが神を畏れ敬いますように」。
・パウロは様々な苦労をしながらも、何とかしてローマに福音を伝えたいと願い、そのために行動した。福音は「私だけ」にとどまるべきものではなく、「あなたたち」にも伝えられる必要があるからだ。私たちが教会堂を再建するのも信仰の証しを地域の方々に示すためだ。「主に捧げる」、この意識なくして会堂建築は進まないだろう。
-ローマ1:13-15「ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。私は、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」。
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