すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2010年8月25日祈祷会(詩編61篇、地の果てからの祈り)
1.詩の背景理解は分かれる

・詩編61篇の詩人は「地の果てからあなたを呼びます」(61:3)と祈る。この「地の果て」をどう理解するかで、61篇の理解は大きく異なってくる。
-地の果てを「エルサレムより遠く離れた場所=バビロン」と理解すれば、捕囚の民が王の安泰(国家の平安)を祈った歌となる。捕虜としてバビロンにいたユダ王エホヤキンが捕囚後37年目に出獄を許されたことに希望を持った歌であると理解する注解者もいる(列王記下25:27-30参照)。
-地の果てを「黄泉」と理解すれば、死の床から奇跡的に回復した詩人(王)が、感謝の祈りを神殿に捧げたものとなる。本詩を「死の病から救われたヒゼキヤ王の感謝の祈り」と解する人もいる(列王記下20:1-11参照)。
・私たちは、地の果てを「苦悩の中で神が見えなくなった心」とみなし、その閉ざされた心が祈りと共に溶かされ、神の臨在を知り、感謝の気持ちで満たされていった詩と理解したい。
-詩編61:2-3「神よ、私の叫びを聞き、私の祈りに耳を傾けてください。心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上に、私を導いてください」。
・詩人は歌う「あなたの幕屋に宿り、あなたの翼を避け所とします」。幕屋とは神殿、翼は神殿の至聖所に安置された契約の箱を覆うケルビムの翼であろう。これまで自分を支えてきたものがすべて崩れ、存在の基盤を失った詩人が絶望の中で祈り始めた時、神が共にいてくださることを感じ、感謝した言葉であろう。
-詩編61:4-5「あなたは常に私の避けどころ、敵に対する力強い塔となってくださいます。あなたの幕屋に私はとこしえに宿り、あなたの翼を避けどころとして隠れます」。
・詩人は続ける「神よ、あなたは民の祈りを聞き、御名を畏れる人の求めを聞かれる」。「御名を畏れる」、第二神殿時代のマラキ書、ネヘミヤ書等に出てくる。「誓願」、あるいは「満願」は、願いごとして、それがかなえられた時に、神殿に捧げ物をすることであり、そのことも当詩が第二神殿時代であることを推察させる。
-詩編61:6「神よ、あなたは必ず私の誓願を聞き取り、御名を畏れる人に、継ぐべきものをお与えになります」。
-詩編61:9「私は永遠にあなたの御名をほめ歌い、日ごとに満願の献げ物をささげます」。

2.王への祈り

・詩編61編では7-8節に唐突に「王への祈り」が出てくる。文脈に沿わないこの祈りをどう理解するべきだろうか。
-詩編61:7-8「王の日々になお日々を加え、その年月を代々に永らえさせてください。王が神の前にあってとこしえの王座につき、慈しみとまことに守られますように」。
・月本昭男氏は「詩編の思想と信仰」の中で次のように述べる。
-月本昭男・詩編の思想と信仰「第二神殿時代のユダヤの民がダビデ王朝永続の約束に基づく王朝再興の願いを保持し続けたことはよく知られている、ダビデ王朝再興は、大国の支配下に置かれた民の政治的独立への願いの象徴でもあった。第二神殿時代、もともと個人の祈りとして編まれた詩篇が神殿に集う会衆の祈りとして共有され、民の詩篇として読み継がれる中で、その末尾に王への祝福が加えられたのであろう」。
・詩編の中にもダビデ王家の回復を願う89篇他がある。
-詩編89:50-52「主よ、真実をもってダビデに誓われた、あなたの始めからの慈しみは、どこに行ってしまったのでしょうか。主よ、御心に留めてください、あなたの僕が辱めを受けていることを。強大な民を私が胸に耐えていることを。彼らは、主よ、あなたの敵であり、彼らは辱めるのです。彼らはあなたの油注がれた者を追って、辱めるのです」。
・国を失うことは民族の恥であり、その回復をダビデ王家の再興に託した気持が、やがてメシア(救世主)はダビデの子であるとの信仰、あるいは待望になっていく。イエスがエルサレムに入城された時、民はイエスを「ダビデの子にホサナ」と歓迎している。イエスの中にダビデ王家再興の期待を込めたのであろう。
-マルコ11:8-10「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ』」。
・イエスの即位の王座はエルサレム郊外の十字架上であり、王冠は茨であった。それは当時期待されていたメシア像を超絶するものであり、弟子たちにさえ受け入れられなかった。その弟子たちが変えられたのはイエスの復活を通してである。詩編61篇の祈りはイエスの復活によってかなえられたと私たちは理解する。
-汽灰螢鵐15:3-5「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。
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