すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2010年8月11日祈祷会(詩編59篇、神はわが砦の塔)
1.敵に命を狙われる詩人の叫び

・詩編59篇の表題は「ダビデの詩・・・サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせた時」とある。この表題をどう理解するかで当該詩編の解釈は異なってくる。多くの解釈者たちは6節「あなたは万軍の神、イスラエルの神。目を覚まし、国々を罰してください」から、異国人の攻撃に悩む王の嘆願の歌と読む。しかし私たちは伝統に従って、ダビデがサウル王から命をつけ狙われた時の歌と理解して解釈して行く。物語はサムエル記上19-20章にある。
-汽汽爛┘19:11-12「サウルはダビデの家に使者を遣わし、彼を見張らせ、翌朝には殺させようとした。ダビデの妻ミカルはダビデに言った『今夜中に避難して自分の命を守らなければ、明日は殺されます』。ミカルはダビデを窓からつり降ろし、彼は逃げて難を免れた」。
・ダビデは何故自分の命が狙われなければいけないのかわからない。理不尽な攻撃に追い回される中で、彼は神の救済を待ち望んでいく。「神よ、目覚めて下さい。この不条理を裁いて下さい」と彼は祈る。
-詩編59:2-5「私の神よ、私を敵から助け出し、立ち向かう者からはるかに高く置いてください。悪を行う者から助け出し、流血の罪を犯す者から救ってください。御覧ください、主よ、力ある者が私の命をねらって待ち伏せし、争いを仕掛けて来ます。罪もなく過ちもなく、悪事をはたらいたこともない私を打ち破ろうとして身構えています。目覚めて私に向かい、御覧ください」。
・権力者は自分の地位の保全のために、自分に取って代わる危険性のある者を排除する。迫害される者にとっては身に覚えのないことで命をつけ狙われる。彼は恐怖を覚える。
-詩編59:6-8「あなたは主、万軍の神、イスラエルの神。目を覚まし、国々を罰してください。悪を行う者、欺く者を容赦しないでください。夕べになると彼らは戻って来て、犬のようにほえ、町を巡ります。御覧ください、彼らの口は剣を吐きます。その唇の言葉を誰が聞くに堪えるでしょう」。
・犬、番犬、死肉をあさるもの、その犬が自分を殺そうとしてつけ狙う。その恐怖の中で彼はひたすら祈る。「あなたこそ私の砦の塔、あなたは私を見守って下さる」と、詩人は神への信頼を歌う。敵の攻撃に対する最大の防御は神に対する祈りである。その祈りが詩人の心に平安を与える。
-詩編59:9-11「しかし主よ、あなたは彼らを笑い、国々をすべて嘲笑っておられます。私の力よ、あなたを見張って待ちます。まことに神は私の砦の塔。神は私に慈しみ深く、先立って進まれます。私を陥れようとする者を、神は私に支配させてくださいます」。

2.神が見守って下さることによる平安

・12節から後半に入る。前半は「私の救い」が焦点であったが、後半からは「敵対者の滅び」が中心となる。呪いと欺きを持って詩人を陥れようとする彼らが、その高ぶりゆえに自滅することを詩人は願う。
-詩編59:12-14「彼らを殺してしまわないでください、御力が彼らを動揺させ屈服させることを、私の民が忘れることのないように。私たちの盾、主よ。口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠に、自分の唱える呪いや欺く言葉の罠に、彼らが捕えられますように。御怒りによって彼らを絶やし、絶やして、ひとりも残さないでください。そのとき、人は知るでしょう。神はヤコブを支配する方、地の果てまでも支配する方であることを」。
・詩人は敵の物理的消滅を願っているのではない。絶やす=キッラーとは終わらせること、敵の悪だくみの終りを詩人は願う。事実、ダビデもサウルの死を願わなかった(汽汽爛┘24:6-7)。彼の願いは「神はヤコブを支配する方、地の果てまでも支配する方」であることを明らかにすることであった。捕囚地の預言者エゼキエルが見出したのも、「神は神であり、人は神ではない」ことを知るために捕囚の苦しみが与えられたという事実である。
-エゼキエル 6:9-10「お前たちのうちで逃れた者は、捕囚として連れ去られる先の国々で私を思い起こす・・・そして彼らは、私が主であり、理由もなくこの災いを彼らにくだすと告げたのではなかったことを知るようになる」。
・不安に満ちた一夜が明けた。どのような時にも眠りは人の心を再生させる。不安の中でも眠りに就くことができたのは神の恵みだ。詩人は自分が神の守りの中にあることを感謝して歌う「あなたは私の砦の塔、私を見守って下さる方」と。
-詩編59:17-18「私は御力をたたえて歌をささげ、朝には、あなたの慈しみを喜び歌います。あなたは私の砦の塔、苦難の日の逃れ場。私の力と頼む神よ、あなたにほめ歌をうたいます。神は私の砦の塔。慈しみ深い私の神よ」。
・本詩は、本来は個人の祈りの歌であったが、その詩が読み継がれ、民(共同体)の祈りとなって行った。個人があってこそ、初めて共同体もある。一人の魂の救いが創造者なる神の意志であれば、一人の魂の救いが全世界の出来事になっていく。教会の使命も教勢の進展ではなく、一人一人の魂の救済であろう。それは外部状況の変化ではなく(この詩においても命を狙われる状況は変わっていない)、神が見守って下さることを知ることによる魂の平安だ。
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