すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2010年7月14日祈祷会(詩篇56編、どこにも逃れる場がなくなった時)
1.ダビデの逃亡生活

・詩編56篇には「ダビデがガドでペリシテ人に捕えられた時」との表題が付いている。物語はサムエル記上21:11‐15にある。サウルに追われて敵陣に逃れたダビデを、敵軍が捕えて殺そうとした時の歌という。
−サムエル記上21:11-15「ダビデは・・・サウルから逃れ、ガトの王アキシュのもとに来た。アキシュの家臣は言った『この男はかの地の王、ダビデではありませんか。この男についてみんなが踊りながら、サウルは千を討ち、ダビデは万を討ったと歌ったのです」。ダビデは・・・ガトの王アキシュを大変恐れた。そこで彼は、人々の前で変わったふるまいをした。彼らに捕らえられると、気が狂ったのだと見せかけ、ひげによだれを垂らしたり、城門の扉をかきむしったりした。アキシュは家臣に言った『見てみろ、この男は気が狂っている。なぜ連れて来たのだ』」。
・多くの学者はこの歌をユダの人々がバビロンに囚われていった時、虐げられ、侮られた苦難の日々の中で、ダビデの信仰を忍んで歌ったものとみる。逃れる場のない苦難の中で人はどうすればよいのかがこの詩の主題である。
−詩編56:2-3「神よ、私を憐れんでください。私は人に踏みにじられています。戦いを挑む者が絶えることなく私を虐げ、陥れようとする者が絶えることなく私を踏みにじります。高くいます方よ、多くの者が私に戦いを挑みます」。
・ダビデはサウル王の迫害から逃れるために、敵のペリシテ人の地に入るが、そこでも命を狙われる。前にも後ろにも引けない状況に追い込まれた時、人はどうするのか。詩人はひたすら神に依り頼む。神以外に救いはないからだ。
−詩編56:4-5「恐れをいだくとき、私はあなたに依り頼みます。神の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者が私に何をなしえましょう」。
・この世界を人間が支配すると考えた時、人は敵の強大さに恐れまどう。サウルはイスラエルの王であり、アキシュはペリシテの王であった。彼には安住の地はない。しかし、この世界が「神が働かれる場」と信じるとき、恐れは消える。「肉にすぎない者に何ができよう」、パウロも行き詰った時、ひたすら主に祈り、安心を与えられた。
−ローマ8:31-33「もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか・・・だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです」。
・「人々は私の言葉を曲げ、待ち構えて争いを起し、命を奪おうとしてうかがっている」、その中にあっても私は挫けません。「あなたが私の涙を革袋に蓄え、私の嘆きを書き記していて下さることを知るからです」と詩人は歌う。
−詩編56:6-9「私の言葉はいつも苦痛となります。人々は私に対して災いを謀り、待ち構えて争いを起こし、命を奪おうとして後をうかがいます。彼らの逃れ場は偶像にすぎません。神よ、怒りを発し、諸国の民を屈服させてください。あなたは私の嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に、それが載っているではありませんか。あなたの革袋に私の涙を蓄えてください」。

2. 私たちの涙を革袋に蓄えられる神

・「あなたは私の嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に、それが載っているではありませんか。あなたの革袋に私の涙を蓄えてください」と詩人は祈った。神はこの苦難、この悲しみを知っておられる。人が私たちを見捨てた時も神は見捨てられない。その安心が詩人に神を讃美させる。
−詩編56:10-12「神を呼べば、敵は必ず退き、神は私の味方だと私は悟るでしょう。神の御言葉を賛美します。主の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。人間が私に何をなしえましょう」。
・「人間が私に何をなしえましょう」、この信仰が歴史を変える。ルターはカトリック教会を批判した言葉と著書をとり取り消さなければ処罰すると言われた時、次のように祈ったという(1521年ウォルムス国会での証言)。
−「私は教皇と公会議の権威は認めません・・・私の良心は神の御言葉にとらわれているのです。私は何も取り消すことができないし、取り消そうとも思わない。なぜなら、良心にそむくことは正しくないし、安全でもないからです。これよりほかに私はどうすることもできない。ここに私は立つ。神よ、私を助けたまえ。アーメン。」
・「人間が私に何をなしえましょう」、この信仰を与えられた者はどのような状況の中でも主を讃美できる。
−詩編56:13-14「神よ、あなたに誓ったとおり、感謝の献げ物をささげます。あなたは死から私の魂を救い、突き落とされようとした私の足を救い、命の光の中に、神の御前を歩かせてくださいます」。
・内村鑑三「基督信徒の慰め」は彼が次から次に襲い来る苦難の中でどのような慰めを神から得たのかを語る。第一章「愛する者の失せし時」、第二章「国人に捨てられし時」、第三章「基督教会に捨てられし時」、第四章「事業に失敗せし時」、第五章「貧に迫りし時」、第六章「不治の病に罹りし時」 、すべて当時の彼を襲った苦難(妻の死、国賊としての非難、基督教会からの批判、無職による貧困など)がきっかけとなっている。彼は言う「自分も頭では正論を理解していた、しかし実際問題にぶつかってその空論であることを知った」。しかし、彼は信仰をそこで捨ててしまうのではなく、むしろ実際問題を信仰の視点から克服する。そして「正論は確かに正論であった」ことを再認識する。のみならず、彼は自身の信仰を昇華させていく。神と共にある苦難がダビデを形成し、内村鑑三を育てていった。
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