すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2010年6月2日祈祷会(詩編50編、犠牲ではなく感謝を捧げよ)
1.犠牲の捧げ物で命を贖うことはできない

・本詩は「犠牲の捧げ物を捧げさえすれば神の赦しは来る」とする安易な信仰に対する、裁きの預言詩である。最初に全地の支配者である神が、天と地を証人として呼ばれ、契約を守ろうとしない信仰者を召喚される。
−詩編50:1-3「神々の神、主は、御言葉を発し、日の出るところから日の入るところまで、地を呼び集められる・・・私たちの神は来られる、黙してはおられない。御前を火が焼き尽くして行き、御もとには嵐が吹き荒れている」。
・神はシナイ山において民と契約を結ばれ、イスラエルをご自身の民とされた。しかし民はその契約を守ろうとしないゆえに、神の法廷に召喚される。彼らは契約を破ったからだ。
−詩篇50:4-7「神は御自分の民を裁くために、上から天に呼びかけ、また、地に呼びかけられる。『私の前に集めよ、私の慈しみに生きる者を、いけにえを供えて私と契約を結んだ者を』。天は神の正しいことを告げ知らせる。神は御自ら裁きを行われる『私の民よ、聞け、私は語る。イスラエルよ、私はお前を告発する。私は神、私はお前の神』」。
・「いけにえを供えて契約を結ぶ」、契約(ベリース)の本来の意味は「切る」である。古代、契約の締結に当たって、犠牲の動物を屠って二つに切り、当事者がその間を通り、契約に違反した場合はこのようになってもかまわないとの意思を示した(創世記15:9-18)。契約は生死をかけて締結されるものであり、従って違反者は告発されるのである。その契約は「捧げものを捧げよ」と言う契約ではない。「神の民としてふさわしく生きよ」との契約であった。祭儀は行われていたが、神が求められるのは祭儀ではない。神は犠牲の動物の血や肉を必要とされないからだ。
−詩篇50:8-13「献げ物についてお前を責めはしない。お前の焼き尽くす献げ物は、常に私の前に置かれている。私はお前の家から雄牛を取らず、囲いの中から雄山羊を取ることもしない。森の生き物は、すべて私のもの、山々に群がる獣も、私のもの。山々の鳥を私はすべて知っている・・・たとえ飢えることがあろうともお前に言いはしない。世界とそこに満ちているものはすべて私のものだ。私が雄牛の肉を食べ、雄山羊の血を飲むとでも言うのか」。
・人間は災禍をもたらす自然現象を神の怒りと受け止め、それを宥めるための供犠、供物等を捧げる宗教儀礼を生みだしてきた。イスラエルでもそうであり、焼きつくす捧げ物は「宥めの香り」と呼ばれた(レビ1:9)。しかし預言者たちは、それは人間中心の宗教であり、神はそのようなものは喜ばれないと激しく批判する。
−アモス5:21-24「私はお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。たとえ、焼き尽くす献げ物を私にささげても、穀物の献げ物をささげても、私は受け入れず、肥えた動物の献げ物も顧みない。お前たちの騒がしい歌を私から遠ざけよ・・・正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」。

2.犠牲ではなく、感謝を

・ユダヤ教の中核は祭儀律法であり、それをこのように否定する詩篇は珍しい。詩篇は本来は祭儀の中で読まれた讃美歌だからだ。この詩篇50編には預言者の呼びかけと同じ語調が満ちている。「祭儀ではなく、感謝を神に捧げよ」と。
−詩篇50:14-20「告白を神へのいけにえとしてささげ、いと高き神に満願の献げ物をせよ。それから、私を呼ぶがよい。苦難の日、私はお前を救おう。そのことによって、お前は私の栄光を輝かすであろう。神は背く者に言われる『お前は私の掟を片端から唱え、私の契約を口にする。どういうつもりか。お前は私の諭しを憎み、私の言葉を捨てて顧みないではないか。盗人と見ればこれにくみし、姦淫を行う者の仲間になる。悪事は口に親しみ、欺きが舌を御している。座しては兄弟をそしり、同じ母の子を中傷する』」。
・「犠牲を捧げれば救われる」という考え方は、「捧げる」という人間の行為を中心にする。そこには神はなく、あるのは自己の救いを求める自我だけである。信仰とはそういうものではないと預言者は繰り返し述べてきた。
−エレミヤ7:9-11「盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、私の名によって呼ばれるこの神殿に来て私の前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。私の名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。私にもそう見える、と主は言われる」。
・「その行いを正せ、私の民としてふさわしい生き方をせよ。そうでなければあなたは裁かれるのだ』と詩人は、うそぶく信仰者に警告する。
−詩篇50:21-23「お前はこのようなことをしている。私が黙していると思うのか。私をお前に似たものと見なすのか。罪状をお前の目の前に並べて、私はお前を責める。神を忘れる者よ、わきまえよ。さもなくば、私はお前を裂く。お前を救える者はいない。告白をいけにえとしてささげる人は、私を栄光に輝かすであろう。道を正す人に、私は神の救いを示そう」。
・この警告は私たちにも与えられる。主日に礼拝を守り、十一献金をしても、それは救いの要件ではない。救われたから感謝するのだ。礼拝や献金が喜びにならない限り、救われているとはいえないことを銘記すべきであろう。
−マタイ7:21「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである」。
プリンタ用画面
友達に伝える
前
2010年5月26日祈祷会(詩編49編、人が死ぬ時に持っていけるものは)
カテゴリートップ
詩編
次
2010年6月9日祈祷会(詩篇51編、赦しと新生)