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トップ  >  エレミヤ書  >  2010年5月20日祈祷会(エレミヤ書25章、神の怒りの鞭と盃)
1.神の怒りの鞭

・エレミヤ25章には、ユダのエホヤキム王4年、バビロンのネブカドネザル王元年、紀元前605年にエレミヤに臨んだ預言が語られている。前609年ユダ王ヨシヤはメギドの戦いでエジプト軍に敗れ、以降パレスチナの地はエジプトの支配下に置かれ、エホヤキムはエジプトの傀儡として王になる。しかし、4年後の前605年にエジプト軍はカルケミシュでバビロン軍に敗退し、支配権はバビロンに移っていく。その中でエレミヤはバビロンを神の鞭として認識し始める。
−エレミヤ25:1「ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、ユダの民すべてについてエレミヤに臨んだ言葉。その年はバビロンの王ネブカドレツァルの第一年に当たっていた」。
・エレミヤは、ユダの民とエルサレムの住民すべてに語った「私はヨシヤ王13年(前627年)から今日(前605年)まで、23年間も神の警告の言葉をあなた方に語ってきたが、あなた方は聞かなかった」と。
−エレミヤ25:2-7「ユダの王・・・ヨシヤの第十三年から今日に至るまで二十三年の間、主の言葉は私に臨み、私は倦むことなく語り聞かせたのに、お前たちは従わなかった。主は僕である預言者たちを倦むことなく遣わしたのに、お前たちは耳を傾けず、従わなかった・・・お前たちは自分の手で造った物をもって、私を怒らせ、災いを招いた」。
・「それゆえ主はバビロン王ネブカドネザルを召し、ユダを滅ぼし尽くすように命じられた」とエレミヤは宣言する。「ネブカドネザルは主の鞭として立てられた」とエレミヤは言う。
−エレミヤ25:8-9「それゆえ、万軍の主はこう言われる。お前たちが私の言葉に聞き従わなかったので、見よ、私は私の僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽くさせる・・・そこは人の驚くところ、嘲るところ、とこしえの廃虚となる」。
・エレサレムの地から喜びの声は絶たれ、住民はバビロンの地に捕囚とされ、その期間は70年にも及ぶであろうと。
−エレミヤ25:10-12「私は、そこから喜びの声、祝いの声、花婿の声、花嫁の声、挽き臼の音、ともし火の光を絶えさせる・・・これらの民はバビロンの王に七十年の間仕える。七十年が終わると、私は、バビロンの王とその民、またカルデア人の地をその罪のゆえに罰する、と主は言われる。そして、そこをとこしえに荒れ地とする」。
・ネブカドネザルはその信仰の故に、あるいは正しさの故に、僕に選ばれたのではない。彼は猛々しい侵略者であり、異教の偶像を信じる者だった。しかし神はこのような者を用いてさえ、御心を実行される。時が移り、新しくペルシャが支配者になる時、預言者はペルシャ王クロスを「主の僕」と呼び、捕囚からの解放の役割を担わせる。
−イザヤ44:26-28「エルサレムに向かって、人が住み着くと言い、ユダの町々に向かって、再建されると言う。私は廃虚を再び興す・・・キュロスに向かって、私の牧者、私の望みを成就させる者と言う」。

2.神の怒りの盃

・15節から預言は「神の怒りの盃」に移る。「怒りの盃をまずエルサレムとユダ全域の王や高官に飲ませよ」との主の言葉をエレミヤは伝える。神の裁きはまずその「選びの民」から始まる。
−エレミヤ25:15-18「イスラエルの神、主は私にこう言われる『私の手から怒りの酒の杯を取り、私があなたを遣わすすべての国々にそれを飲ませよ。彼らは飲んでよろめき、私が彼らの中に剣を送るとき、恐怖にもだえる』。私は、主の御手から杯を取り、主が私を遣わされるすべての国々にその酒を飲ませた。また、エルサレムとユダの町々、その王たちと高官たちに飲ませ、今日のように、そこを廃虚とし、人の驚くところ、嘲るところ、呪うところとした」。
・盃は祭儀の世界のものであり、剣は歴史の世界のものである。両者が合体される、信仰の目で歴史を見るということだ。すなわち、歴史的な出来事、戦争や民族の興廃の背後にあるのは歴史を支配される神であり、その神の怒りの盃であるとエレミヤは言う。その視点で考えれば、第一次大戦も第二次大戦も神の怒りの盃だったのだろうか。
−エレミヤ25:27-29「主はこう言われる。飲んで酔い、おう吐し、倒れて起き上がるな、私がお前たちの中に送る剣のゆえに。彼らがあなたの手から杯を受けず、飲むことを拒むなら、あなたは彼らに言うがよい。万軍の主はこう言われる。お前たちは必ず飲むことになる。見よ、私の名によって呼ばれるこの都にも、私は災いをくだし始めた。お前たちが罰を免れようとしても、決して免れることはない。私はこの地のすべての住民に対して、剣を呼び寄せた」。
・神の怒りは集中的にご自分の選びの民に下される。神ご自身が民の罪のために一番傷つき、痛みたもうのだ。その神の怒りがご自身に向けられた出来事こそ、キリストの十字架であった。神の怒りの盃をイエスはひとり飲まれた。
−マルコ14:36「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
・この神の痛みを追求していったのが神学者・北森嘉蔵だ。彼が「神の痛みの神学」を書く契機になったのが、エレミヤ書31:20の言葉との出会いだった。
−エレミヤ31:20「エフライムは私のかけがえのない息子、喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに私は更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り、私は彼を憐れまずにはいられないと主は言われる」。
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