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トップ  >  エレミヤ書  >  2010年5月13日祈祷会(エレミヤ書24章、良いいちじくと悪いいちじく)
1.良いいちじくと悪いいちじくの幻

・前597年、エルサレムはバビロンに制圧され、エホヤキン王とその家族、貴族、軍人、祭司等の指導者たちは捕囚としてバビロンに連れ行かれ、バビロン軍はエヒヤキンの叔父ゼデキヤを王に任命して帰国する(第一次バビロン捕囚)。−列王記下24:15-16「彼(ネブカドネザル)はヨヤキンを捕囚としてバビロンに連れ去り、その王の母、王妃たち、宦官たち、国の有力者たちも、捕囚としてエルサレムからバビロンに行かせた。バビロンの王はすべての軍人七千人、職人と鍛冶千人、勇敢な戦士全員を、捕囚としてバビロンに連れて行った」。
・そのゼデキヤ王治世下のある日、エレミヤは神殿の前に二つのいちじくのかごが置かれている幻を見る。
−エレミヤ24:1-2「主が私に示された。見よ、主の神殿の前に、いちじくを盛った二つの籠が置いてあった。それは、バビロンの王ネブカドレツァルが、ユダの王、ヨヤキムの子エコンヤ、ユダの高官たち、それに工匠や鍛冶をエルサレムから捕囚としてバビロンに連れて行った後のことであった。一つの籠には、初なりのいちじくのような、非常に良いいちじくがあり、もう一つの籠には、非常に悪くて食べられないいちじくが入っていた」。
・主は何が見えるかとエレミヤに問われた。エレミヤはふたつのいちじくの籠が見えますと答えた。
−エレミヤ24:3「主は私に言われた『エレミヤよ、何が見えるか』。私は言った『いちじくです。良い方のいちじくは非常に良いのですが、悪い方は非常に悪くて食べられません』」。
・幻の意味がエレミヤに示される。良いいちじくとは先にバビロンの地に囚われていった人々であり、彼らはその地で悔い改め、変えられ、このユダの地に戻ってくるであろうと。
−エレミヤ24:4-7「そのとき、主の言葉が私に臨んだ『イスラエルの神、主はこう言われる。このところからカルデア人の国へ送ったユダの捕囚の民を、私はこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう。彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す。彼らを建てて、倒さず、植えて、抜くことはない。そして私は、私が主であることを知る心を彼らに与える。彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。彼らは真心をもって私のもとへ帰って来る』」。
・他方、悪いいちじくとは、この地に残されたゼデキヤ以下の指導者たちであった。彼らは当面の危機が去ると、楽観的になり慢心し、エジプトに頼って、反バビロンの画策を始める。彼らはまだ悔い改めようとはしなかった。
−エレミヤ24:8-10「主はまたこう言われる。ユダの王ゼデキヤとその高官たち、エルサレムの残りの者でこの国にとどまっている者、エジプトの国に住み着いた者を、非常に悪くて食べられないいちじくのようにする。私は彼らを、世界のあらゆる国々の恐怖と嫌悪の的とする。彼らは私が追いやるあらゆるところで、辱めと物笑いの種、嘲りと呪いの的となる。私は彼らに剣、飢饉、疫病を送って、私が彼らと父祖たちに与えた土地から滅ぼし尽くす」。

2.裁きをどうとらえるか

・常識的には、バビロンに囚われていった人々は神の裁きを受け、本国に残された者たちこそ神に選ばれた者と考えるだろう。しかし、自分たちが神に選ばれたと思う時、人は慢心し、神の御心を思おうとしない。捕囚地の預言者エゼキエルも同じような幻を示される。神が恵まれるのは捕囚地で泣いている人々であり、故国に残って他人の土地を我が物にしている民ではない」と。
−エゼキエル11:14-21「人の子よ、エルサレムの住民は、あなたの兄弟たち・・・に対して言っている『主から遠く離れておれ。この土地は我々の所有地として与えられている』。・・・主なる神はこう言われる『確かに、私は彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかし私は、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった・・・私はお前たちを諸国の民の間から集め、散らされていた諸国から呼び集め、イスラエルの土地を与える。彼らは帰って来て、あらゆる憎むべきものと、あらゆる忌まわしいものをその地から取り除く。私は彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける・・・彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。しかし、憎むべきもの、忌まわしいものに心を寄せている者には、彼らの行ってきたことが頭上にふりかかるようにする』」。
・選ばれる人々は、神の裁きの前に打たれ、砕かれ、そのどん底から神の救いを求める者だ。神は求める者には答えられ、彼らは悔い改め、救われる。裁きこそ救いであり、泣いたことのない者には本当の喜びは与えられない。
−エレミヤ29:12-14「そのとき、あなたたちが私を呼び、来て私に祈り求めるなら、私は聞く。私を尋ね求めるならば見いだし、心を尽くして私を求めるなら、私に出会うであろう、と主は言われる。私は捕囚の民を帰らせる。私はあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる」。
・人に裁きが与えられる時、ある人はその裁きの中で自滅し、別の人は裁きを通して新しい存在へと生まれ変わる。何が彼らを分けるのだろうか。「悲しみを御心として受け入れる」ことはすべての人に可能であるのに。
−競灰螢鵐7:10「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。
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