すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  エレミヤ書  >  2010年5月6日祈祷会(エレミヤ書23章、民を正しく導かない王と預言者に対する批判)
1.民を正しく導かない王たち

・エレミヤ23章には、民を導く立場にありながら、その務めを果たさない、王と預言者に対するエレミヤの言葉が集められている。23章前半は王に対する批判で、22章からの流れを汲む。エレミヤは民である羊を飼う役割を果たさない王たちを批判する。王たちの怠慢によって民は亡国・異国への捕囚として散らされていくと。
−エレミヤ23:1-2「『災いだ、私の牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは』と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主は、私の民を牧する牧者たちについて、こう言われる。『あなたたちは、私の羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。私はあなたたちの悪い行いを罰する』と主は言われる」。
・「その散らされた民を主ご自身が再びお集めになる」と、エレミヤは滅びの後の回復を預言する。エゼキエル34章にも同様の預言がある。人に絶望した後でも、預言者は神に頼るゆえに、滅びの先に回復を見ることができる。
−エレミヤ23:3-4「『この私が、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者を私は立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない』と主は言われる」。
・新しく集められた民を牧する者は、もはや地上の王ではない。彼らはまた同じ過ちを繰返であろう。ここに初めて、エレミヤのメシア預言が見られる。地上の王に絶望した者は神ご自身の統治を夢見ていく。
-エレミヤ23:5-6「見よ、このような日が来る、と主は言われる。私はダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は『主は我らの救い』と呼ばれる」。

2.民を正しく導かない預言者たち

・23章後半は王と同じく、民を導く責任があるのに、その責任を果たさない預言者に対する批判が述べられる。かつてサマリヤの預言者は公然とバアル礼拝を行い、北イスラエル王国の滅亡を招いた。今エルサレムの祭司や預言者たちも、不道徳と欺瞞により、ユダ王国の破滅を招こうとしているとエレミヤは批判する。
-エレミヤ23:10-11「姦淫する者がこの国に満ちている。国土は呪われて喪に服し、荒れ野の牧場も干上がる。彼らは悪の道を走り、不正にその力を使う。預言者も祭司も汚れ、神殿の中でさえ私は彼らの悪を見たと主は言われる」。
・それ以上の罪が、彼らが語る偽預言だ。彼らは主の言葉を語るのではなく、自分の心の思いを語る。破滅が迫っているのに「平和だ、祝福だ」と民に偽りを語っている。
-エレミヤ23:16-17「お前たちに預言する預言者たちの言葉を聞いてはならない。彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ、主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る。私を侮る者たちに向かって彼らは常に言う『平和があなたたちに臨むと主が語られた』と。かたくなな心のままに歩む者に向かって『災いがあなたたちに来ることはない』と言う」。
・彼らは私を組みしやすい者、いう事を聞く神(近くの神)と思っている。しかし私は神、彼らから超越し、彼の思いを砕く者(遠きの神)だ。国が滅亡する時、もみ殻のような彼らの言葉は風に吹き飛ばされてしまうだろう。
-エレミヤ23:23-29「私はただ近くにいる神なのか・・・私は遠くからの神ではないのか・・・もみ殻と穀物が比べものになろうか・・・私の言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる」。
・神の言葉(マッサー)はしばしば重荷(マッサー)であって、人はその言葉の重さに耐えられず、言葉を曲げてきた。しかし、そのような者は投げ捨てると主は言われる。
-エレミヤ23:33「もし、この民(預言者であれ祭司であれ)があなたに、『主の託宣(マッサ)とは何か』と問うならば、彼らに『お前たちこそ重荷(マッサ)だ。私はお前たちを投げ捨てる、と主は言われる』と答えるがよい」。
・2500年前に語られた偽預言者への警告は今日では、宗教を商売にする牧師たちに向かって語られる。E.H.ピーターソンはその著「牧会者の神学」の中で、神の言葉を取次ごうとしない牧師たちに警告する。
-牧会者の神学から「アメリカの牧師たちは企業経営者の一群に変容してしまった・・・それは『宗教という商店経営』であって、商店経営という点においては他の商売となんら変わることはない。目覚めている時、これらの企業家たちの心を占めていることはファーストフード店の経営戦略と同じような関心である。眠っている時、彼らが夢見ていることはジャーナリストの注目を集めるようなたぐいの成功である」
・カール・バルトも「人々を満足させる牧師」という説教を通して同じことを言った。
-カール・バルト説教選集6巻より「偽りの預言者とは、人々に満足を与える牧師のことである。彼は福音の説教者、牧会者、奉仕者と呼ばれるが、しかし彼は人間たちの被用者にすぎない。彼は自分が神の名において語っていると夢想しているが、彼は世論の名において、立派な人々の名において語っているに過ぎない。キリスト教はあなた方にとって好ましく重要なものである。あなた方は生活の美しい飾りとしてそれを好む。しかし、神の霊とこの世の霊との間には平和はない。神の意志と人間の意志との間の平和を説教し、現在の生と新しい生を穏やかに賢く結び付け、民が築く隙間の多い壁に宗教と言う漆喰を上塗りし、人々を満足させようとする、そのようなことには何の意味もない」
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