1.ヤコブが神の導きを求める


・ヤコブはエジプトに下るためにヘブロンを出発し、ベエルシバで神の名を呼び、神は答えられた。
―創世記46:1−2「イスラエルはその持ち物をことごとく携えて旅立ち、ベエルシバに行って、父イサクの神に犠牲をささげた。この時、神は夜の幻のうちにイスラエルに語って言われた『ヤコブよ、ヤコブよ』。」
・ベエルシバはアブラハムやイサクが祭壇を築いた場所である。その場所でヤコブはエジプト行きについての神の許しを求める。アブラハムやイサクがかって自分の思いでエジプトに下り、罪を犯したからだ。
―創世記12:10「その地に飢饉があったのでアブラムはエジプトに寄留しようと、そこに下った。飢饉がその地に激しかったからである。」
―創世記26:1-2「飢饉がその国にあったので、イサクはゲラルにいるペリシテびとの王アビメレクの所へ行った。その時、主は彼に現れて言われた『エジプトへ下ってはならない。わたしがあなたに示す地にとどまりなさい』」
・神は「自分もエジプトに下る」と言われた。聖書の神は、その民がエジプトにいてもシリヤにいても共におられる神(インマヌエル=私は共にいると言われる神)である。
―創世記46:3-4「私は神、あなたの父の神である。エジプトに下るのを恐れてはならない。私はあそこであなたを大いなる国民にする。私はあなたと一緒にエジプトに下り、また必ずあなたを導き上るであろう。」
・このインマヌエルの神に出会った時、人生の意味が変わる。人生は旅であり、人は地上では寄留者だ。しかし、その旅は一人ではない。神が共にいて下されば、どのような現実であれ、受け入れることが出来る。
―ヘブル13:6「主は私の助け主である。私には恐れはない。人は、私に何ができようか」。
・「あなたを導き上る」との約束は、400年後の出エジプトで具現化する。聖書は、歴史は自分の代だけで終了するものではなく、仮に自分の生きている内に祝福が実現しなくとも約束は果たされることを告げる。
―ヘブル11:13「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。」
・また「ヤコブの目をヨセフが閉じる」ことも約束された。死者にとって最大の慰めは、近親者に見守られながら死ぬことであろう。ヤコブはその祝福を与えられた。
―創世記46:4「ヨセフが手ずからあなたの目を閉じるであろう」。


2.ヤコブのエジプト下り

・ヤコブと共にエジプトに向かった人数は70人であった。70は完全数である。
―創世記46:27「エジプトへ行ったヤコブの家の者は合わせて七十人であった。」
・歴史的には、セム族の一部が食料を求めてエジプトに下った。今日的には難民の群れである。しかし、神は、その言葉に従い信仰の冒険をする民を通じて、歴史を導かれる。
―ヘブル11:8「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。」
・一行はゴセンの地に到着し、ヤコブは失われた息子ヨセフと22年ぶりに対面する。
―創世記46:28-29「ヤコブはユダを先にヨセフにつかわして、ゴセンで会おうと言わせた。そして彼らはゴセンの地へ行った。ヨセフは車を整えて、父イスラエルを迎えるためにゴセンに上り、父に会い、その首を抱き、首をかかえて久しく泣いた。」
・失われた子の回復は、聖書の中心テーマの一つだ。イエスが来られたのも失われた子を求めてであった。
―ルカ15:4-7「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣人を呼び集め『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人が一人でも悔改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きい喜びが、天にあるであろう。」
・こうしてイスラエルの民はエジプトに住み、ヤコブへ約束されたように数を増し加えられていった。
―出エジプト記1:1-7「ヤコブの腰から出たものは、合わせて七十人。ヨセフはすでにエジプトにいた。・・・そして、ヨセフは死に、兄弟たちも、その時代の人々もみな死んだ。けれどもイスラエルの子孫は多くの子を生み、ますますふえ、はなはだ強くなって、国に満ちるようになった。」