すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  エレミヤ書  >  2010年4月8日祈祷会(エレミヤ書20章、エレミヤの告白)
1.迫害の中でうめくエレミヤ

・エレミヤは神殿でエルサレム滅亡を預言したため、捕えられ、鞭打たれ、神殿の門に鎖で繋がれるという屈辱を味わう。通り過ぎる人々はそのエレミヤを見て、嘲笑した。
-エレミヤ20:1-2「主の神殿の最高監督者である祭司、イメルの子パシュフルは、エレミヤが預言してこれらの言葉を語るのを聞いた。パシュフルは預言者エレミヤを打たせ、主の家の上のベニヤミン門に拘留した」。
・権力を批判した時には必ず迫害が起こる。権力(国家)からの迫害は社会からの排斥を伴う。社会の中に生きる人間にとって大きな試練だ。エレミヤもその試練の中で弱音を吐く。
-エレミヤ20:7-8「主よ、あなたが私を惑わし、私は惑わされて、あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。私は一日中、笑い者にされ、人が皆、私を嘲ります。私が語ろうとすれば、それは嘆きとなり、『不法だ、暴力だ』と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、私は一日中、恥とそしりを受けねばなりません」。
・エレミヤは言う「主よ、あなたが私を惑わし・・・」、惑わすという言葉は男が若い女性を誘惑する時に用いられる言葉だ。エレミヤは「惑わされて」預言者となった、主から「だまされた」と言っている。牧師の父親が治安維持法違反で捕えられ獄中で病死した、辻宣道氏(後に牧師)は「決してこの道には入らない」と決心した。
-辻宣道「あらしの中の牧師たち」から:日本基督教団弘前住吉教会牧師であった父啓蔵は1942年6月に治安維持法違反で捕らえられ、教会は解散を命令された。教会が解散させられると、涙を流して祈っていた信徒たちはどこへともなく散って行き、一家に近寄る者はなかった。生計の道を絶たれ、5人の子供を抱えた母は途方に暮れ、長男の私はカボチャを分けて貰うため、元教会員の農家を訪ねたが、門前払いをされた「おたくに分けてやるカボチャはない」。ほんの少し前まで真っ先に証しを語り、尊敬を集めていた熱心な教会役員だった。私たち一家は軍の残飯を分けて貰って生き延びた。辻啓蔵は2年半の収監の後、1945年1月、青森刑務所で獄死した」。
・エレミヤは、神が「語れ」と言うから語ったのに、民からは「恐怖が四方からと大言する者」と罵られ、語るのをやめようとすれば、「主の言葉が体の中で火のように燃え上がる」。「私は疲れました」とエレミヤは告白する。-エレミヤ20:9-10「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまいと思っても、主の言葉は、私の心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして私は疲れ果てました。私の負けです。私には聞こえています、多くの人の非難が。『恐怖が四方から迫る』と彼らは言う。『共に彼を弾劾しよう』と。私の味方だった者も皆、私がつまずくのを待ち構えている『彼は惑わされて、我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう』と」。

2.エレミヤの告白

・エレミヤは「自分を嘲笑する者に復讐して下さい」と祈る。ある者は言うであろう「なぜ敵を愛せないのか」と。エレミヤは神と人との間に立つゆえにこの苦しみを味わう。自己の信仰の安寧のみを願う者には批判の資格はない。
-エレミヤ20:12「万軍の主よ、正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれる方よ。私に見させてください、あなたが彼らに復讐されるのを。私の訴えをあなたに打ち明け、お任せします」。
・自分を嘲る者に報復を願うのは人間の当然だ。だからこそ、私たちは十字架のイエスの言葉を聞いて告白する『この人は神の子だった』と。
-ルカ23:34「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。
・エレミヤの言葉は激しさを増し、ついには生まれてこなければ良かったと自分の生をも呪うようになる。
-エレミヤ20:14-18「呪われよ、私の生まれた日は。母が私を産んだ日は祝福されてはならない。・・・その日は、私を母の胎内で殺さず、母を私の墓とせず、はらんだその胎をそのままにしておかなかったから。 なぜ、私は母の胎から出て労苦と嘆きに遭い、生涯を恥の中に終わらねばならないのか」。
・「自分の生まれた日を呪う」、苦しみが極限までいった時のうめきだ。聖書にはヨブのうめきも記録されている。彼は子供たちの命が失われ、財産が取り去られ、自らも重い病に取りつかれた時に、神を呪い始める。
-ヨブ記3:1-20「ヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、言った。私の生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も・・・なぜ、私は母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか・・・なぜ、労苦する者に光を賜り、悩み嘆く者を生かしておかれるのか」。
・エレミヤもヨブも自殺と相接するギリギリまで追い込まれているが、二人とも自殺しない。「神を呪う」とは神の存在を信じることであり、いかに絶望しても、最後は創造者に任せ、自分で処理しないことだ。神を呪うこともまた信仰の形なのだ。同じくイエスを裏切ったユダは自死を選び、ペテロは留まって復活の主に出会ったことを考えるとき、私たちはこの真理を自殺多発生のこの社会に伝える必要があろう。
プリンタ用画面
友達に伝える
前
2010年4月1日祈祷会(エレミヤ書19章、陶器を砕く象徴預言)
カテゴリートップ
エレミヤ書
次
2010年4月15日祈祷会(エレミヤ書21章、命の道と死の道)