すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2010年3月17日祈祷会(詩編39編、死の床からの祈り)
1.人生ははかなく空しい

・詩篇39編は病者の祈りである。詩人は「衰え果て」、「あとどれくらい生きられるのか」と模索している。彼は重い病に苦しみ、死の床にある。最初は自分の苦しみを人に言うまいとした。口を開けば、主をののしりかねないと懸念したからだ。
-詩篇39:2「私は言いました『私の道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。私の口にくつわをはめておこう』」。
・しかし苦難の中での沈黙はあまりにも苦しい。口を閉ざし続けることによって、苦しみは募り、炎のように燃え上がった。
-詩篇39:3「私は口を閉ざして沈黙し、あまりに黙していたので苦しみがつのり、心は内に熱し、呻いて火と燃えた。私は舌を動かして話し始めた」。
・出てきたのは「あとどれくらい生きられるのか」を主に問う言葉だった。詩人は病が重く、残された命が少ないことを知りつつも、それを受容できない。人は死ぬとわかっていても、自分の死は受け入れることができない。
-詩篇39:5「教えてください、主よ、私の行く末を、私の生涯はどれ程のものか、いかに私がはかないものか、悟るように」
・ZARDの坂井泉水さんが2007年2月に慶応病院で事故死した。彼女は子宮けい癌の末期で肺に転移し、抗癌剤治療中だった。かつて彼女は「いつかは」という曲を書いた。その中で「あとどれくらい生きられるのか」と生の空しさを歌う。
-ZARD・いつかは「Baby baby don't you cry 静かな夕暮れに 残された日々 夢を見させて どんなに時間を 縛ってもほどける あとどれくらい 生きられるのか いつかは情熱も 記憶の底へ 愛し合う二人も セピアに変わる」
・詩人は人生の空しさを神に訴える。与えられた生涯は「わずか手の幅ほどのつかのまのもの」、「立っている人もやがて倒れる」、「積み上げた財産も名声も知恵も消え去る」、人生とは何なのかと詩人は訴える。
-詩篇39:6-7「御覧ください、与えられたこの生涯は、僅か、手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいのです。ああ、人は確かに立っているようでもすべて空しいもの。ああ、人はただ影のように移ろうもの。ああ、人は空しくあくせくし、だれの手に渡るとも知らずに積み上げる」。
・死を前にすれば、だれもが人生の空しさを思わざるを得ない。心理学者の村田久行氏は死を前に人間は三つのスピリチュアル・ペインを感じるという。将来がないことによる時間的な痛み、他者との交わりが絶たれることによる関係的な痛み、自分が何もできなくなる自立的な痛みの三つだ。この痛みを人はどのように解決していけば良いのだろうか。

2.空しさの中で神を呼び求める

・詩人は空しさの中で神を求める。「創造主であるあなただけが、この人生に意味を与えることができる」と。
-詩篇39:8「主よ、それなら、何に望みをかけたらよいのでしょう。私はあなたを待ち望みます」。
・詩人は自分の病は罪の結果と受け止めている。だから「さいなむ御手を放して下さい」、「沈黙しないで下さい」と祈る。
-詩篇39:11-12「私をさいなむその御手を放してください。御手に撃たれて私は衰え果てました。あなたに罪を責められ、懲らしめられて、人の欲望など虫けらのようについえます。ああ、人は皆、空しい」。
・詩人は沈黙する神に祈る。彼は自分がやがてこの地上を去り、この世から失われるが、最後の旅路を主にあって輝きたいと願う。そのためにもこの病から来る痛みを取り去り、平安のうちに死なせて下さいと彼は祈る。
-詩篇39:13-14「主よ、私の祈りを聞き、助けを求める叫びに耳を傾けて下さい。私の涙に沈黙していないで下さい。私は御もとに身を寄せる者、先祖と同じ宿り人。あなたの目を私からそらせ、立ち直らせて下さい、私が去り、失われる前に」。
・キリスト教団議長を務めた鈴木正久牧師も死が避けられないことを知り、嘆いた。信仰者にとっても死は恐怖なのだ。彼を再び立ち上がらせたのは、ピリピ書だった。パウロはピリピ書の中で、「死ぬとはキリストの元に行くことだ」と述べる。
-ピリピ1:21-24「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、私には分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です」。
・鈴木正久は最後に「死を超えた明日」を与えられたことを感謝して死んでいく。
-鈴木正久・病床日記「ピリピ人への手紙を読んでもらっていた時、パウロが自分自身の肉体の死を前にしながら非常に喜びにあふれて他の信徒に語りかけているのを聞きました・・・パウロは、生涯の目標を自分の死の時と考えていません。それを超えてイエス・キリストに出会う日、キリスト・イエスの日と述べています。そしてそれが本当の「明日」なのです。本当に明日というものがあるときに、今日というものが今まで以上に生き生きと私の目の前にあらわれてきました」。
・死は決して変えることのできない人間の危機であり、受容するしかない。その時、自我的な信仰は何の役にも立たない。
-2010年1月31日説教「クリスチャンの精神科医・赤星進氏は、信仰には“自我の業としての信仰”と“神の業としての信仰”の二つがあるという。
自我の業としての信仰とは、救われるために信じる信仰だ。この病を癒してほしい、この苦しみを取り除いてほしいとして、私たちは教会の門を
たたき、聖書を読み、バプテスマを受ける。しかし、この信仰に留まっている時は、やがて信仰を失う。なぜならば、自我の業としての信仰は、
要求が受け入れられない時には、崩れていくからだ」。
プリンタ用画面
友達に伝える
前
2010年3月10日祈祷会(詩編38編、病苦の中で神を求める祈り)
カテゴリートップ
詩編
次
2010年3月24日祈祷会(詩編40編、犠牲の捧げものではなく、御旨を)