すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  エレミヤ書  >  2010年3月11日祈祷会(エレミヤ書16章、預言者の孤独)
1.預言者の孤独

・エレミヤは王国の滅亡を預言する滅びの預言者として、「妻を娶るな」、「弔いの席に出るな」、「宴席にも出るな」と命じられる。身をもって示す預言、預言者の象徴行為と言われる。
-エレミヤ16:1-4「主の言葉が私に臨んだ『あなたはこの所で妻をめとってはならない。息子や娘を得てはならない』。この所で生まれる息子、娘、この地で彼らを産む母、彼らをもうけた父について、主はこう言われる『彼らは弱り果てて死ぬ。嘆く者も、葬る者もなく、土の肥やしとなる。彼らは剣と飢饉によって滅びる。死体は空の鳥、野の獣の餌食となる』」。
・冠婚葬祭の日常的な交わりを断てとエレミヤは命じられる。何故ならば、裁きの時に人は死んでも葬る者もなく、祝いの宴も開かれなくなるからだ。この絶対禁欲をエレミヤは裁きの前に命じられる。人としての喜びを捨てよとの命令だ。
-エレミヤ16:5-8「あなたは弔いの家に入るな。嘆くために行くな。悲しみを表すな。私はこの民から、私の与えた平和も慈しみも憐れみも取り上げる・・・身分の高い者も低い者もこの地で死に、彼らを葬る者はない。彼らのために嘆く者も、体を傷つける者も、髪をそり落とす者もない。死者を悼む人を力づけるために、パンを裂く者もなく、死者の父や母を力づけるために、杯を与える者もない。あなたは酒宴の家に入るな。彼らと共に座って、飲み食いしてはならない」。
・パウロは「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け」(ローマ12:15)と勧める。福音は人を生かそうとするが、預言にはそれができない。滅びの悲しみ、孤独を味わえとエレミヤは命じられた。
-エレミヤ16:9「万軍の主、イスラエルの神はこう言われる『見よ、私はこのところから、お前たちの目の前から、お前たちが生きているかぎり、喜びの声、祝いの声、花婿の声、花嫁の声を絶えさせる』」。
・16:10からその理由が述べられる。「人々はこの地で他の神々に仕えたゆえに、他の神々の地に追放する」と。ここではユダの滅びと捕囚が前提とされている。編集者である申命記史家の言葉がここに挿入されている。
-エレミヤ16:10-13「彼らはあなたに『なぜ主はこの大いなる災いをもたらす、と言って我々を脅かされるのか。我々は、どのような悪、どのような罪を我々の神、主に対して犯したのか』と言うであろう。あなたは、彼らに答えるがよい『お前たちの先祖が私を捨てたからだ』と主は言われる。『彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、ひれ伏し、私を捨て、私の律法を守らなかった。お前たちは先祖よりも、更に重い悪を行った。おのおのそのかたくなで悪い心に従って歩み、私に聞き従わなかった。私は、お前たちをこの地から、お前たちも先祖も知らなかった地へ追放する。お前たちは、そのところで昼も夜も他の神々に仕えるがよい。もはや私は、お前たちに恩恵をほどこさない』」。

2.再生のための裁き

・彼らは罪を犯したゆえに裁きを受けなければいけない。最初に漁師が、次に狩人が来て、人々を連れ出すと言われる。ここに第一回目の捕囚と第二回目の捕囚の双方が暗示されている。当然、編集者の言葉である。
−エレミヤ16:16-18「見よ、私は多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、私は多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。私の目は、彼らのすべての道に注がれている。彼らは私の前から身を隠すこともできず、その悪を私の目から隠すこともできない。まず、私は彼らの罪と悪を二倍にして報いる。彼らが私の地を、憎むべきものの死体で汚し、私の嗣業を忌むべきもので満たしたからだ」。
・第一回捕囚で漁師の網から逃れることができた者も、第二回捕囚では岩の裂け目から探し出され、狩り出される。第一回捕囚時にはダビデ王家と神殿は残された。彼らがその出来事を神からの警告と受け止めることができれば、二回目の捕囚はなかった。しかし彼らはそうすることができなかった。エルサレムがイエスの警告を聞かず、滅びたようにである(ルカ13:1-5)。なお捕囚の経緯は下記の通りである。
-BC597:バビロニヤ、エルサレム占領、第一回捕囚、ヨヤキン王連行される。ゼデキヤ王、バビロニヤに擁立される、11年間王位。
-BC594-593:親エジプト派と、親バビロニヤ派の抗争
-BC588:ゼデキヤ、バビロニヤに反乱。エルサレム包囲される。
-BC587:バビロニヤ、エルサレムを破壊、ゼデキヤ王殺される。ユダ王国滅亡、第二回捕囚。ユダは、バビロニヤの州に併合される。
・「人間をとる漁師」、イエスが弟子たちを召命するときに言われた言葉だ。その時、イエスはこのエレミヤ16章を想起されていたのかもしれない。人を死に定める漁師がイエスによって、人を生かす漁師に変えられる。ここに福音がある。−マルコ1:16「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは『私について来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた」。
・裁きは人の罪に対してなされる。それは人が裁きを通して悔い改め、立ち帰るためだ。だから時が来れば裁きは終わり、救いが来る。捕囚で遠くに連れ去られた民が再び戻る日が来る。史家はその出来事を新しい「出エジプト」と呼ぶ。
−エレミヤ16:14-15「見よ、このような日が来る、と主は言われる。人々はもう『イスラエルの人々をエジプトから導き上られた主は生きておられる』と言わず、『イスラエルの子らを、北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる』と言うようになる。私は彼らを、私がその先祖に与えた土地に帰らせる」。
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