すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.兄弟たちの悔改め


・兄弟たちを歓待した後、ヨセフはベニヤミンの袋に密かに銀の杯を入れ、ベニヤミンを捕えて残そうとした。
―創世記44:1-2「ヨセフは家づかさに命じて言った『この人々の袋に、運べるだけ多くの食糧を満たし、めいめいの銀を袋の口に入れておきなさい。またわたしの杯、銀の杯をあの年下の者の袋の口に、穀物の代金と共に入れておきなさい』。家づかさはヨセフの言葉のとおりにした。」
・銀の杯はベニヤミンの袋から見つかった。兄弟たちはそれを冤罪であると知っていたが、前に犯した罪(ヨセフをエジプトに売った)の審きとして、抗弁せずに受け入れる。
―創世記44:16「我々はわが主に何を言い、何を述べ得ましょう。どうして我々は身の潔白をあらわし得ましょう。神が僕らの罪をあばかれました。我々と、杯を持っていた者とは共にわが主の奴隷となりましょう」。
・ヨセフは杯を盗んだベニヤミンだけを残して帰ってもよいと兄弟たちに告げる。前に弟ヨセフを妬んで売ったように、今回も弟ベニヤミンを犠牲にして兄弟たちが身の安全を図ろうとするかの試みであった。
―創世記44:17「ヨセフは言った『わたしは決してそのようなことはしない。杯を持っている者だけがわたしの奴隷とならなければならない。ほかの者は安全に父のもとへ上って行きなさい』」。
・それに対して兄弟のユダは弟を残して帰れば父ヤコブは悲しみのあまり死ぬ、それは出来ないと抗弁する。
―創世記44:30-31「私があなたの僕である父のもとに帰って行くとき、もしこの子供が一緒にいなかったら、どうなるでしょう。父の魂は子供の魂に結ばれているのです。この子供が我々と一緒にいないのを見たら、父は死ぬでしょう。そうすれば僕らは、あなたの僕であるしらがの父を悲しんで陰府に下らせることになるでしょう。」
・かってヨセフを奴隷として売ることを主唱したユダが、今はベニヤミンのために自己を犠牲にして助命を申し出る。ここに兄弟たちの悔改めがなされ、それを見てヨセフは自分の身を明かし、兄弟の和解がなされる。
―創世記44:33-34「どうか、僕をこの子供の代りに、わが主の奴隷としてとどまらせ、この子供を兄弟たちと一緒に上り行かせてください、この子供を連れずに、どうして私は父のもとに上り行くことができましょう。父が災に会うのを見るに忍びません」。


2.悔改めと赦し


・人間は心の底に人に言えない、人に知られたくない一隅を持っている。悔改めとはその罪を告白し、赦しをこうことだ。兄弟たちはヨセフを奴隷としてエジプトに売ったことを父にさえ秘密にしていた。
―創世記44:27-28「あなたの僕である父は言いました『おまえたちの知っているとおり、妻は私に二人の子を産んだ。ひとりは外へ出たが、きっと裂き殺されたのだと思う。私は今になっても彼を見ない。』」
・罪に時効はない。人に言えない罪を神の前に公にすることが悔改めの第一歩である。
―創世記44:16「ユダは言った『我々はわが主に何を言い、何を述べ得ましょう。どうして我々は身の潔白をあらわし得ましょう。神が僕らの罪をあばかれました。』」
・悔改めた時、人は変えられる。自分のために兄弟を売ったユダが、兄弟のために自分を捨てるものにされた。
―汽茱魯3:16-17「主は、私たちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、私たちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。」
・兄弟を悔改めに導くためには試練が必要であった。私たちも兄弟が食物に困っている時には躊躇なくこれを助ける。しかし霊魂の救いは罪の自覚による悔改めがない限りない。そして悔改めた時、そこに赦しが宣言される。
―創世記45:4-8「私はあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売った者です。しかし私をここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきに私をつかわされたのです。この二年の間、国中に飢饉があったが、なお五年の間は耕すことも刈り入れることもないでしょう。神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、私をあなたがたよりさきにつかわされたのです。それゆえ私をここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です。神は私をパロの父とし、その全家の主とし、またエジプト全国のつかさとされました。」
・ヨセフの人生は神の経綸に導かれたもの、生かされた生であった。私たちも人生を自己のために自己が歩む道としてではなく、神の経綸の一部として歩ませていただく人生と見る時、世の出来事が変って来る。
―創世記50:19-21「恐れることはいりません。私が神に代ることができましょうか。あなたがたは私に対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。」
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