すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2010年2月10日祈祷会(詩編34編、助けを求める声を聞かれる主)
1.自己の救済体験から

・本詩には「ダビデがアビメレクの前で狂気を装い、追放された時に」との前書きがある。ダビデはサウル王から命を狙われ、敵のペリシテ陣営に逃げ込んだが、ペリシテ王アビメレクに疑われた時、狂気を装って逃れた(サムエル記上21:11-16)。詩人もかつて命の危機から救われた体験を持つゆえに、編集者がダビデになぞらえて前書きを書いた。
−詩編34:5「私は主に求め、主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった」。
・はじめに詩人は「主は常に貧しい者を顧みてくださるから、共に主をあがめよう」と呼びかける。聖書において貧しさは罪ではなく、貧しき人は、信頼をもって主に身を寄せ、主を恐れ敬い、主を探す存在として肯定される。
−詩編34:2「どのようなときも、私は主をたたえ、私の口は絶えることなく賛美を歌う。私の魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。私と共に主をたたえよ。一つになって御名をあがめよう」。
・詩人の讃美は彼自身の救済体験から来る。彼はかつて苦難の中で主に呼び求め、主はこれを聞いてくださった。
−詩編34:7-8「この貧しい人が呼び求める声を主は聞き、苦難から常に救ってくださった。主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった」。
・「主の使いはその周りに陣を敷き」、出エジプトでの体験の想起がここにある(出エジプト記23:20-22)。かつて先祖たちが叫び求めた時、主はその声を聞いてくださったように、今でも聞いてくださる。
−出エジプト記3:7「主は言われた『私は、エジプトにいる私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、私は降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出す』」。
・「同じ救済体験を私もした。だから主の憐れみの深さを味わい見よ」と詩人は呼びかける。信仰は単なる知識の集積では生まれない。各人が主との出会いと言う内面体験をした時に、そこに信仰が生まれる。
−詩編34:9-11「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え・・・若獅子は獲物がなくて飢えても、主に求める人には良いものの欠けることがない」。

2.主の救済とは何か

・詩人は自分の経験に学べと若い人たちに言う。「悪から遠ざかり、善を行い、平和を追い求めよ」と。
−詩編34:12-15「子らよ、私に聞き従え。主を畏れることを教えよう。喜びをもって生き、長生きして幸いを見ようと望む者は、舌を悪から、唇を偽りの言葉から遠ざけ、 悪を避け、善を行い、平和を尋ね求め、追い求めよ」。
・ペテロは報復を戒め、「悪を持って悪に報いるな」と教え、その根拠として詩編34:13−17を引用した。
−汽撻謄3:9-12「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。『命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる』」。
・「主は助けを求める者の声を聞いてくださる。主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる」、これが本詩の中心語句であり、信仰者の希望の源である。苦難こそが神との出会いの橋渡しとなる。苦難は祝福なのだ。
−詩編34:18「主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される。主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる」。
・しかしその救済とは、必ずしも私たちが求める形での救済ではないかもしれない。詩人は歌う「主に従う人には災いが重なる」、悪の世を生きるのであれば、世からの迫害、排除は当然であろう。それを驚くことはない。
−詩編34:20「主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる」。
・パウロは病からの救済を求めたが、イエスは彼に「私の恵みはあなたに十分である」と言われた。病が癒されないことが、苦しみが続くことが祝福である場合もあるのだ。そのとげが私たちを信仰者であり続けさせる。
−競灰螢鵐12:7「思い上がることのないようにと、私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように・・・サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました。すると主は『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。
・都合の良い時には「アーメン」といい、都合の悪い時には神を拒否していくのであれば、ご利益信仰、偶像礼拝だ。イエスはそうなさらなかった。都合の悪い時も神により頼んでいく。その時、私たちは復活という驚くべき体験をする。
−ルカ22:42「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください」。
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