すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  エレミヤ書  >  2010年1月28祈祷会(エレミヤ書10章、イスラエルを滅ぼされる神の義と憐れみ)
1.偶像礼拝の中で

・エレミヤ10章はエレミヤの言葉を核にしながら、後代に編集された箇所である。前半は異教の地バビロンにいる捕囚民に「異国の民の道に倣うな=偶像礼拝に巻き込まれるな」とのメッセージが響く。
−エレミヤ10:1-2「イスラエルの家よ、主があなたたちに語られた言葉を聞け。主はこう言われる。異国の民の道に倣うな。天に現れるしるしを恐れるな。それらを恐れるのは異国の民のすることだ」。
・バビロニアでは天文学=占星術が盛んであった。イエス生誕時に訪れた東方からの占星術師たちも、バビロニアから来たものであろう。彼らは天体の動きが地上の出来事を預言すると考えていた(当時王の星(木星)とユダヤ人の星(土星)の急接近があったとされ、これが新しいユダヤの王こそが世界の王となられるとの伝承が生まれた)。
−マタイ2:1-2「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです』」。
・3−9節に語られるのは、木石で造られた像を拝む愚かさだ。口も利けず、歩くことさえできない神々が、人々に幸福をもたらしたり、災いを下したりすることがあろうか、あるはずがないと語られる。
−エレミヤ10:3-5「もろもろの民が恐れるものは空しいもの、森から切り出された木片、木工がのみを振るって造ったもの。金銀で飾られ、留め金をもって固定され、身動きもしない。きゅうり畑のかかしのようで、口も利けず、歩けないので、運ばれて行く。そのようなものを恐れるな。彼らは災いをくだすことも幸いをもたらすこともできない」。
・捕囚の民はバビロニアの偶像に囲まれて生活している。敗者である彼らは、勝者であるバビロニアの神々になびかず、天地の造り主である主への信仰を維持した。11節はアラム語で書かれている。当時の格言であろう。
−エレミヤ10:6-11「主よ、あなたに並ぶものはありません。あなたは大いなる方、御名には大いなる力があります。・・・諸国民、諸王国の賢者の間でもあなたに並ぶものはありません。彼らは等しく無知で愚かです。木片にすぎない空しいものを戒めとしています。それは・・・木工や金細工人が造ったもの、いずれも、巧みな職人の造ったものです。主は真理の神、命の神、永遠を支配する王。その怒りに大地は震え、その憤りに諸国の民は耐ええない。このように彼らに言え。天と地を造らなかった神々は、地の上、天の下から滅び去る、と」。
・12−16節は51:15-19に繰り返され、内容は第二イザヤ(捕囚地の預言者)と酷似する。「私たちは偶像を拝まない」と宣言した捕囚地の民の信仰を記載したものであろう。
−エレミヤ10:14-16「人は皆、愚かで知識に達しえない。金細工人は皆、偶像のゆえに辱められる。鋳て造った像は欺瞞にすぎず霊を持っていない。彼らは空しく、また嘲られるもの、裁きの時が来れば滅びてしまう。ヤコブの分である神はこのような方ではない。万物の創造者であり、イスラエルはその方の嗣業の民である。その御名は万軍の主」。

2.イスラエルを滅ぼされる神の義と憐れみ

・10章は17節からエレミヤの預言に戻る。10:17-22はバビロニア軍がエルサレムを包囲する中で語られたエレミヤの言葉であろう。「やがてバビロニア軍が攻めて来る。お前たちは捕囚となる。その準備をせよ』とエレミヤは言う。
−エレミヤ10:17-18「包囲されて座っている女よ、地からお前の荷物を集めよ。主はこう言われる。見よ、今度こそ私はこの地の住民を投げ出す。私は彼らを苦しめる、彼らが思い知るように」。
・主がご自分の民を撃たれ、民は苦難の中で嘆く「私の夫は殺され、私の息子は連れ去られた」と。
−エレミヤ10:19-20「ああ、災いだ。私は傷を負い、私の打ち傷は痛む。しかし、私は思った『これは私の病、私はこれに耐えよう』。私の天幕は略奪に遭い、天幕の綱はことごとく断ち切られ、息子らは私のもとから連れ去られて、ひとりもいなくなった。私の天幕を張ってくれる者も、その幕を広げてくれる者もいない」。
・敗戦の灰燼の中でエレミヤは祈る「これはあなたの懲らしめです。私たちはその懲らしめを受けます。でもどうか滅ぼしつくさないで下さい。残りの者を残して下さい」と。
−エレミヤ10:23-24「主よ、私は知っています。人はその道を定めえず、歩みながら足取りを確かめることもできません。主よ、私を懲らしめて下さい、しかし正しい裁きによって。怒りによらず、私が無に帰することのないように」。
・人は神の懲らしめがなければ神に従う者となれない。だから神の懲らしめ(義)こそ愛なのだ。その愛を受けることは苦痛だ。しかし、その苦痛の中に救いがある。ルターは神の怒りの中に、神の愛と憐れみを見た。人が悔い改めて神の救いを求める時、神の義は神の憐れみ、愛となっていくのだ。
−詩編6:2-5「主よ、怒って私を責めないで下さい、憤って懲らしめないで下さい。主よ、憐れんで下さい、私は嘆き悲しんでいます。主よ、癒して下さい、私の骨は恐れ、私の魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。主よ、立ち帰り、私の魂を助け出して下さい。あなたの慈しみにふさわしく、私を救って下さい」。
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