すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2009年12月2日祈祷会(詩篇25編、主よ わが罪を赦し)
1.苦しみの訴えの中で、自己の罪を知った者の祈り

・詩編25編は「わが神」に対する「私」の信頼と懇願で構成される。祈り手は、わが神への信頼の中で、自己を見つめつつ、その歩むべき道を示し、苦難からの解放を懇願する。
-詩編25:1-2「主よ、私の魂はあなたを仰ぎ望み、私の神よ、あなたに依り頼みます。どうか、私が恥を受けることのないように、敵が誇ることのないようにしてください」。
・祈り手は苦しみの中にある。だからその苦しみを見て欲しい、知って欲しいと神に懇願する。幼子が自分の痛みを親に、「見て、見て」と求めるように、祈り手は神に「見て欲しい」と懇願する。
-詩編25:18-19「御覧ください、私の貧しさと労苦を。どうか私の罪を取り除いてください。御覧ください、敵は増えて行くばかりです。私を憎み、不法を仕掛けます」。
・苦難からの懇願を神に祈った時、彼は苦しみの根源に自分の罪が見えてきた。だから彼は自分の罪を思い起こさないように、忘れてくださるように神に祈る。
-詩編25:11(口語訳)「主よ、み名のために、私の罪をおゆるしください。私の罪は大きいのです」。
・罪の赦しを得た者は感謝して主に従うことを決意する。それが「主の道に従う」生き方だ。詩編25編には繰り返し「主の道」という言葉が用いられる。
-詩編25:8-10「主は恵み深く正しくいまし、罪人に道を示してくださいます。裁きをして貧しい人を導き、主の道を貧しい人に教えてくださいます。その契約と定めを守る人にとって、主の道はすべて、慈しみとまこと」。
・主の道、イエスはそれを「私が道であり、私を見よ」と言われた。私たちはイエスを通して神と出会う。
-ヨハネ14:6「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。

2.罪の赦しはひとえに主の憐れみの中に

・神が人の罪を思い起こされる時、それは霊的罰(祝福が去る)、物的罰(病気や挫折)となると古代人は考えた。だから救いのために、神が自分の犯した罪を思い起こさないように祈るしかない。そして、罪の赦しはただ神の憐れみから来る。だから祈り手は神の憐れみをひたすら求める。
-詩編25:6-7「主よ思い起こしてください、あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。私の若いときの罪と背きは思い起こさず、慈しみ深く、御恵みのために、主よ、私を御心に留めてください」。
・憐れみはヘブル語レヘム、本来の意味は子宮や胎だ。ギリシャ語ではスプランクナ(内臓)となる。神は、子宮が痛むような(ヘブル語)、はらわたがねじれるような(ギリシャ語)、憐れみを示されると聖書は語る。
-マルコ6:34「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」。*憐れむ=スプランクニゾマイ
・現在の苦難や挫折からの救いはただ罪の赦ししかない。そのことを知る第二イザヤはバビロン捕囚の民に罪の赦し=捕囚からの解放を告げる。罪の赦しこそが捕囚(苦難)からの解放につながる。
-イザヤ40:1-2「慰めよ、私の民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」。
・だからイエスも中風の人を癒す前に、「あなたの罪は赦された」と宣告される。救いがあって癒しがある。
-マルコ2:5-11「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた・・・律法学者が・・・心の中であれこれと考えた『この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神お一人のほかに、いったい誰が、罪を赦すことができるだろうか』。イエスは、彼らが心の中で考えていることを・・・知って言われた『なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人にあなたの罪は赦されると言うのと、起きて、床を担いで歩けと言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう』。そして、中風の人に言われた『私はあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』」。
・人は死に向かって歩む。身体の癒しや苦難からの救済は一時的なものだ。癒されてもやがて死ぬ。人が求めるべきは救いであって、その結果ある人には癒しが、ある人には癒されない祝福が与えられる。
−病者の祈り「私は神に求めた、成功をつかむために強さを。私は弱くされた、謙虚に従うことを学ぶために。私は求めた、偉大なことができるように健康を。私は病気を与えられた、よりよきことをするために。私は求めた、幸福になるために富を。私は貧困を与えられた、知恵を得るために。私は求めた、世の賞賛を得るために力を。私は無力を与えられた、神が必要であることを知るために。私は求めた、人生を楽しむために全てのものを。私は命を与えられた、全てのものに楽しむために。求めたものはひとつも得られなかったが、願いはすべてかなえられた。神に背く私であるのに、言い表せない祈りが答えられた。私はだれよりも最も豊かに祝福されている」。
プリンタ用画面
友達に伝える
前
2009年11月25日祈祷会(詩篇24編、地とそこに満つるものは主のもの)
カテゴリートップ
詩編
次
2009年12月9日祈祷会(詩篇26編、無実を訴える切実な祈り)