すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2009年11月11日祈祷会(詩篇22:23-32、嘆きから讃美へ)
1.嘆きの歌が讃美の歌に変えられる

・イエスは十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27:46)と叫んで、息を引き取られた。
−マタイ27:46「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』。これは『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である」。
・この叫びは詩篇22編の冒頭の言葉だ。弟子たちは「イエスこそメシア、救い主」と信じてきた。そのメシアが無力にも十字架につけられ、十字架上で絶望の言葉を残して死なれた。「この方は本当にメシアだったのか、メシアが何故絶望して死んでいかれたのか」、弟子たちは詩篇22編を通して、イエスの受難の意味を探していく。
-詩篇22:2-3「私の神、私の神、なぜ私をお見捨てになるのか。なぜ私を遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。私の神、昼は呼び求めても答えてくださらない。夜も黙ることをお許しにならない」。
・詩篇22編は前半と後半では内容が一変する。前半(2〜22節)では、人々に嘲られ、攻撃されて、身も心も弱り果てた詠み手が、「わが神」に向かって悲痛な叫びを上げ、救いを嘆願する。後半(23〜32節)は苦しむ者の祈りを聞き届けた主を、公の場で讃える讃歌だ。「祈りが聞かれた」、その体験が詠み手に主を讃美させる。
−詩篇22:25-27「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。それゆえ、私は大いなる集会であなたに賛美をささげ、神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。貧しい人は食べて満ち足り、主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように」。
・個人の苦難と救済は個人的な信仰体験に留まらない。それは礼拝の場において「兄弟たち」に共有され、共同体の讃美となる。「私の信仰告白」が「私たちの信仰告白」になる。それが教会だ。
-詩篇22:23-24「私は兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します。主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ」。

2.世の悲しみと御心に適った悲しみ

・共同体の讃美はやがて、天地を支配される神への讃美になっていく。神は全地を支配される方である故に。
-詩篇22:28-29「地の果てまで、すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り、国々の民が御前にひれ伏しますように。王権は主にあり、主は国々を治められます」。
・その讃美は塵に下った者(死者)へも及び、その讃美は時代を超えて子孫たちにも及んでいく。信仰の継承だ。
-詩篇22:30-32「命に溢れてこの地に住む者はことごとく、主にひれ伏し、塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。私の魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を、民の末に告げ知らせるでしょう」。
・イエスが十字架で死なれたとき、イエスは「十字架刑で処刑されることに積極的な意味を見出せなかった、絶望とともに死んでいかれた」のではないかと思われる。
-2008.3.16代々木上原教会・廣石望牧師説教「イエス自身は、自らの死をどのように理解したのでしょうか。詳細は不明です。はっきりしているのは、『イエスは人々の罪の贖いとして自らの命を捧げるという自覚をもって十字架についた』という理解は、復活信仰をふまえた原始キリスト教における再解釈だということです。この理解はそのままイエス自身の理解には遡りません・・・ではイエスはその死にどのような意味を見出したのか、この点について意見はさまざまです。私に最も本当らしく思われるのは、イエスは十字架刑で処刑されることに積極的な意味を見出せなかった、つまり絶望とともに死んでいったというものです」。
・絶望の中で「わが神、わが神、何故私を捨てられたのか」と叫んで死んで行かれたイエスを、神は復活させてくださった。そこに私たちの希望の源泉がある。死が全ての終わりではないからだ。
-使徒言行録2:23-24「このイエスを・・・あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました」。
・だからペテロは、「そのイエスの傷によって、あなた方は癒されたのだ」と教える。
-汽撻謄2:24「十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」。
・十字架の苦難なしには復活の喜びはない。それを知る故に、私たちは与えられる悲しみや苦しみを神からの授かり物として受け入れていくのだ。その時、その苦しみが私たちを清めていく。
-競灰螢鵐7:10「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。
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