すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  イザヤ書  >  2009年11月5日祈祷会(イザヤ65:17-25、新しい天と新しい地)
1.新しい天と新しい地の幻

・イザヤは65章前半で「主の名を呼ぶ者に主は必ず答えられる」と言った。「主はあなたからの呼びかけを待っておられるのだ、あなたが呼べば答えてくださるのだ」と。
-イザヤ65:1「私に尋ねようとしない者にも私は、尋ね出される者となり、私を求めようとしない者にも見いだされる者となった。私の名を呼ばない民にも私はここにいる、ここにいると言った」。
・その主の応答こそ、新しい天地の創造だ。荒廃したエルサレムに代り、新しいエルサレムが創造される幻をイザヤは見る。苦難は過ぎ去り、救いの時が来るとイザヤは歌い始める。
-イザヤ65:17-18「見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。私は創造する。見よ、私はエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する」。
・神が共におられる故に、エルサレムは再び繁栄の都となる。そこには泣き声や叫び声は絶え、幼くして死ぬ子どもも、命の日を満たさない老人もいなくなるとイザヤは語る。
-イザヤ65:19−20(口語訳)「私はエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。泣く声と叫ぶ声は再びその中に聞えることはない。わずか数日で死ぬみどりごと、おのが命の日を満たさない老人とは、もはやその中にいない。百歳で死ぬ者も、なお若い者とせられ、百歳で死ぬ者は、のろわれた罪びととされる」。
・イザヤの時代、乳幼児死亡率は高く、天寿を全うせず死ぬ者も多かったのだろう。サハラ以南のアフリカ諸国の平均寿命は40〜50歳だ。栄養不良による乳幼児死亡率の高さ、不衛生による感染症死や戦乱による死者も多い。イザヤ書を私たちが「自分の出来事」として読んでいく時、このアフリカの人々にどのように関っていくのか。
-ルカ10:27-28「彼は答えた『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさいとあります』。イエスは言われた『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる』」。
・家を建てても敵に強奪され、畑を耕してもその実りは敵が収奪していた。しかし、これからはそのようなことはない。また生まれた子どもが死ぬこともさらわれることもないと宣告される。
-イザヤ65:21-23「彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく、彼らが植えたものを他国人が食べることもない。私の民の一生は木の一生のようになり、私に選ばれた者らは彼らの手の業にまさって長らえる。彼らは無駄に労することなく、生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に主に祝福された者の一族となる」。

2.幻を持つことの意味

・最後にイザヤは究極の幻、神の国の幻を見る。
-イザヤ65:25「狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、私の聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる」。
・ヨハネもまた、ローマ帝国の迫害により消滅しようとする教会共同体に、神の国の幻を提示する。
―黙示録21:1-4「私はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更に私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」。
・これは幻であって現実ではない。しかし先見者が幻を見ることによって、現実社会も動いていく。キング牧師の「私には夢がある」という演説はその典型だ。
−1963年キング牧師の演説から「私は同胞に伝えたい。今日の、そして明日の困難に直面してはいても、私にはなお夢がある。将来、この国が立ち上がり、『すべての人間は平等である』というこの国の信条を真実にする日が来るという夢が。私には夢がある。ジョージアの赤色の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が同胞として同じテーブルにつく日が来るという夢が。私には夢がある。・・・将来いつか、幼い黒人の子どもたちが幼い白人の子どもたちと手に手を取って兄弟姉妹となり得る日が来る夢が」。
・これは人道主義ではない。信仰の出来事だ。神が行為される故に私たちも行為していく。幻は希望なのだ。どのような状況の中にあっても希望を失わない、神に呼び求める行為なのだ。
−イザヤ65:24「彼らが呼びかけるより先に、私は答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける」。
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