すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  イザヤ書  >  2009年10月29日祈祷会(イザヤ65:1-16、求めよ、そうすれば与えられる)
1.求められることを待ち望む神

・捕囚から帰還した人々は生活の苦しさを訴え、「主の手が短くて救えない。主の耳が鈍くて聞こえない」と不満を言っていた(59:1-2)。それに対して預言者は、「主はあなたたちが呼び求めるのを待っておられる」、「主は常にあなたたちに救いの手を向けてこられた」と反論する。
-イザヤ65:1-2「私に尋ねようとしない者にも、私は、尋ね出される者となり、私を求めようとしない者にも、見いだされる者となった。私の名を呼ばない民にも、私はここにいる、ここにいると言った。反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に、絶えることなく手を差し伸べてきた」。
・「救いがないのはあなたたちの罪の故だ。あなたたちは主を無視して異教の神々に礼拝を捧げ、墓場で死者の霊を呼び出し、禁止された豚肉さえ食べている」と預言者は批判する。バビロニアでは豚肉は広く食され、祖先礼拝も当たり前だった。50年の捕囚の間に民はバビロニア化され、信仰が異教化していた。
-イザヤ65:3-5「この民は常に私を怒らせ、私に逆らう。園でいけにえをささげ、屋根の上で香をたき、墓場に座り、隠れた所で夜を過ごし、豚の肉を食べ、汚れた肉の汁を器に入れながら、『私に近づくな、私はお前にとってあまりに清い』と言う。これらの者は、私に怒りの煙を吐かせ、絶えることなく火を燃え上がらせる」。
・信仰の異教化との戦いが旧約の一つのテーマだ。約束の地に入った民はバール信仰に魅せられ、アッシリアの勢力が強まるとアッシリアの神々を拝んだ。旧約に「主の目に悪とされる」という記述が49回も出てくるが、多くは異教礼拝を指している。これは旧約だけでなく、現代の問題でもある。キリスト教においても韓国のキリスト教は道教や儒教との混合教の要素を持つ。「聖書のみ」、信仰の異教化を防ぐためにはそれに徹する必要がある。
-砧鷁Φ16:30-31「オムリの子アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った。彼はネバトの子ヤロブアムの罪を繰り返すだけでは満足せず、シドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した」。
・主は御言葉がゆがめられることを許されない。それが捕囚後の生活が祝福されない主因だとイザヤは告発する。
-イザヤ65:6-7「見よ、私の前にそれは書き記されている。私は黙すことなく、必ず報いる。彼らのふところに報いる。彼らの悪も先祖の悪も共に、と主は言われる。彼らは山の上で香をたき、丘の上で私を嘲った。私は、初めから彼らがしてきた業を量り、そのふところに報いる」。

2.求める者への祝福と求めない者への裁き

・異教化した群れに中にも正しい信仰を求める者は必ずいる。その者たちは祝福すると主は言われる。その時、不毛地のシャロンの湿地も、砂漠のアコルの谷も、羊や牛が群がる豊かな地に変えられる。
-イザヤ65:8-10「主はこう言われる。ぶどうの房に汁があれば、それを損なうな、そこには祝福があるから、と人は言う。私はわが僕らのために、すべてを損なうことはしない。ヤコブから子孫を、ユダから私の山々を継ぐ者を引き出そう。私の選んだ者らがそれを継ぎ、私の僕らがそこに住むであろう。シャロンの野は羊の群がるところ、アコルの谷は牛の伏すところとなり、私を尋ね求めるわが民のものとなる」。
・アコルの谷は、罪を犯したアカンが家族と共に石で打ち殺された谷(ヨシュア7:24‐26)であり、この場所は「苦悩の谷」と呼ばれた。その「アコルの谷」が、「牛の群れの伏す所となる」。ホセアはイスラエルの民が悔い改め、回復される時、乾いた砂地の谷は、「望みの門」(ホセア2:15)となると預言している。
・しかし祝福は全ての人に与えられるのではない。預言者は冷静にこのことを伝える。11節以降は求める者への救済と、悔い改めない者への審判が交互に繰り返される二重告知だ。
-イザヤ65:11-14「お前たち、主を捨て、私の聖なる山を忘れ、禍福の神(ガド)に食卓を調え、運命の神(ニメ)に混ぜ合わせた酒を注ぐ者よ。私はお前たちを剣に渡す・・・私の目に悪とされることを行い、私の喜ばないことを選んだからである・・・見よ、私の僕らは糧を得るが、お前たちは飢える。見よ、私の僕らは飲むことができるが、お前たちは渇く。見よ、私の僕らは喜び祝うが、お前たちは恥を受ける。見よ、私の僕らは心の喜びに声をあげるが、お前たちは心の痛みに叫びをあげ、魂を砕かれて泣き叫ぶ」。
・「求める者は与えられる」(マタイ7:8)。しかし求めない者には救いは与えられない。その冷徹な事実を見よ(放蕩息子の父親は憐れみ深いが、その息子が帰ったゆえに救いがなされた。帰らなければ破滅しかないであろう)。
-ルカ15:20-24「彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した・・・『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ』」。
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