すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.偽善的信仰に対する批判

・前538年バビロンは滅び、捕囚民は順次エルサレムに帰ったが、帰国者を待っていたのは政治的混乱と経済的困窮だった。始められた神殿再建事業も中断した。その中で預言者ハガイが立ち、「神殿再建なしに神の祝福はない」と励まし、神殿は前515年に完成した。しかし神殿が完成しても状況は好転せず、人々は約束が違うと不満を訴える。その中で第三イザヤは、「お前たちの偽善的信仰が神の祝福を妨げている」として人々の悔い改めを求めていく。
-イザヤ58:1-2「喉をからして叫べ、黙すな、声をあげよ、角笛のように。私の民にその背きを、ヤコブの家にその罪を告げよ。彼らが日々私を尋ね求め、私の道を知ろうと望むように」。
・人々は神に問う「何故私たちが断食してもあなたは喜ばないのか」、「バビロンでの財産を捨てて帰国し、神殿を建て、熱心に礼拝をしているのに、何故生活は豊かにならないのか」との問いである。
-イザヤ58:3「何故あなたは私たちの断食を顧みず、苦行しても認めてくださらなかったのか」。
・それに対して神は答えられる「お前たちは断食の日に商売をし、断食の時に人々を貪り、断食しながら人々と争う。そのような断食を私が喜ぶと思っているのか」と。
-イザヤ58:3-5「見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし、お前たちのために労する人々を追い使う。見よ、お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし、神に逆らってこぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては、お前たちの声が天で聞かれることはない。そのようなものが私の選ぶ断食、苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと、それを、お前は断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか」。
・断食はあくまでも自発的行為であって、悔い改めの日であるのに、行為自体が目的となり、その報酬を求めるようになる時、偽善となる。悔い改めを行為で示せ、人々を憐れむことこそ断食ではないかと神は迫られる。
-イザヤ58:6-7「私の選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと」。
・お前が本当の断食を、正義を行えば、私はお前を祝福する。お前の傷、生活の困難は癒される。
-イザヤ58:8-9a「そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば、『私はここにいる』と言われる」。

2.神に仕えるとは人に仕えることだ

・第三イザヤは言葉を続ける「あなたが他者を貪ることをやめ、呪いの言葉を吐くことを捨てる時、あなたは私の子となるのだ」と。私に仕えるとは人に仕えることなのだ。
-イザヤ58:9b-10「軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉をはくことを、あなたの中から取り去るなら、飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる」。
・その時初めて、廃墟のエルサレムは再建されるだろう。
-イザヤ58:11-12「主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。人々はあなたの古い廃虚を築き直し、あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを『城壁の破れを直す者』と呼び、『道を直して、人を再び住まわせる者』と呼ぶ」。
・神が求められるのは二つだけだ。「主を愛すること」、「人を愛すること」。主を愛するとは安息日を聖として、主に礼拝を捧げることだ。その日には仕事をやめ、奴隷や家畜も休ませよ。
-イザヤ58:13-14「安息日に歩き回ることをやめ、私の聖なる日にしたい事をするのをやめ、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日と呼び、これを尊び、旅をするのをやめ、したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとする。私はあなたに地の聖なる高台を支配させ、父祖ヤコブの嗣業を享受させる」。
・信仰は行為を生む。現代の教会の問題も信仰と生活の乖離だ。人々は自己の癒しを求めて教会に来ても、その生活は変えられず、世の人々と同じ生活を営む。そこに本当の祝福があるのかと第三イザヤは問いかける。
-マタイ25:34-40「王は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
・・・王は答える『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである』」。
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