すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2009年9月9日祈祷会(詩篇15編、誰が主の前に立つことが出来るのか)
1.神殿入城の典礼歌としての詩篇15編

・詩篇15編は神殿入城の際の典礼歌と思われる。巡礼者が神殿に入場する際、祭司は「あなたは神殿に入るにふさわしいか」と問いかける。幕屋は神殿、聖なる山はシオン(エルサレム)である。
−詩篇15:1「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょうか」。
・それに対して巡礼者は答える「私は義を行い、心の真実な者」と。
−詩篇15:2「それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉がある(人)」
・しかし誰が義人で真実であるかを、どのように判別するのか。人の心は外側から見えない故に、人はそれを外面化し、「律法を守る人」とか、「身体に欠損のない人」とかして、神の戒めを人間の戒めに変えてしまう。サムエル記の記事は、ダビデの故事をもって、障害者を神殿から排除するための口実にしていたことを示す。
−競汽爛┘5:6-8「エブス人は・・・ダビデに言った『お前はここに入れまい。目の見えない者、足の不自由な者でも、お前を追い払うことは容易だ』。しかしダビデはシオンの要害を陥れ・・・言った『エブス人を討とうとする者は皆、水くみのトンネルを通って町に入り、ダビデの命を憎むという足の不自由な者、目の見えない者を討て』。このために、目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない、と言われるようになった」。
・主の前にふさわしい人とは、他者との関係では「中傷や嘲りをしない」と言う行為に現れる。
−詩篇15:3「舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人」。
・共同体においては「主の目に適わない人を退け、主を畏れる人を尊ぶ」という行為になる。
−詩篇15:4「主の目にかなわないものは退け、主を畏れる人を尊び、悪事をしないとの誓いを守る人」。
・社会生活においては「利息を取らず、賄賂を受け取らない」という行為になる。
−詩篇15:5「金を貸しても利息を取らず、賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人」。
・当時、利息を取り、賄賂を受けることは、同胞からの搾取と考えられた。
−申命記23:20-21「同胞には利子を付けて貸してはならない・・・ 外国人には利子を付けて貸してもよい・・・それは、あなたが入って得る土地で、あなたの神、主があなたの手の働きすべてに祝福を与えられるためである」。

2.それを倫理化した時、罪が生じる

・この神殿入場儀式を文字通り実行した時、誰も神殿に入ることは出来ない。そこで外形的、形式的にそれを守る者が自分こそ義人だと宣言した。イエスはこのようなパリサイ人たちを偽善者と呼ばれた。
-ルカ18:10-12「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』」
・旧約の預言者もこのような偽善を激しく攻撃した。神の義とは他者に対する正義なのだ。
-イザヤ58:6-8「私の選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出であなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る」。
・この戒めは倫理化してはいけないのだ。それでもなおかつ、聞かなければいけない。神の民としての責任からだ。
-レビ11:45「私はあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。私は聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」。
・新約においても同じ戒めが語られる。私たちは弱く、守れない存在であっても、それを目指すことに意味がある。
-汽撻謄1:15-16「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者となれ。私は聖なる者だからである』と書いてあるからです」。
・アメリカの神学者ウィリモンはその著「牧師」で「牧師には高い要求が課せられる」と述べる。
−ウィリモン「牧師」から「教会の会衆が、牧師が公に告知している信仰を、少なくとも牧師自らが体現するように努めるべきだと期待しているが、それは全く正しい期待である」。
・その時、その人の立つ基盤は磐石なものとなる。
詩篇15:6b「これらのことを守る人はとこしえに揺らぐことがないでしょう」。
・人間存在は揺らぐが神は揺らがない。だから神の言葉の上に(岩の上に)、家を建てるのだ。
−マタイ7:24-25「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」。
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