すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  イザヤ書  >  2009年7月30日祈祷会(イザヤ52:13〜53:6、主の僕の受難供
1.沈黙の死

・イザヤ53章は「主の僕の受難」を歌うが、前半1-6節は生前の僕を歌う。彼は病に苦しめられ、人々は神の呪いが彼の上にあるのだと思った。僕の「祖国に帰ろう」という呼びかけを誰も本気で聞かなかった。
−イザヤ53:2-3「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた」。
・7節から、この僕が不当に捕らえられ、裁判を受け、死刑に処せられたことが歌われる。彼は裁判の席で一言も反論せず、死刑台に向かっていった。この僕がバビロンによって処刑されたのか、ペルシャによって処刑されたのか、わからない。いずれにせよ、彼は反逆者として処刑されたと見られる。
−イザヤ53:7-8「苦役を課せられてかがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、私の民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを」。
・僕は審判の席で沈黙する。無用の弁解をせず、黙々とやるべきことを為していく。証しは言葉ではなく生き方で示される。初代教会の人々も何も言わず殉教(マルテュース)していった。殉教の語源は証人(マルテュース)だ。
-イザヤ42:2-3「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」。
・僕は犯罪者として処刑されていった。人間的に見れば無念の死である。
-イザヤ53:9「彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた」。
・しかしその死は贖罪死であったと詩人は歌う。僕の死を通して、状況は好転していく。
-イザヤ53:10「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる」。

2.苦難から栄光へ

・僕を死に至らしめたのは神であったと詩人は歌う。イエスも「人々に引渡された(パラドゥナイ)」と聖書は書く。
-イザヤ53:11「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。私の僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」。
・死ぬことによって多くの実を結ぶ。死ぬことが必要な時には死んでいく。私たちの人生はこの世で完結する必要はない。私たちの人生が未完であっても後は神が完成してくださる。それを信じるのが信仰者の生き方だ。
-ヨハネ12:24-25「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。
・神は贖罪の死を死んだ僕を高く上げられる。イエスが十字架の死から復活して天に上げられたように、である。
-イザヤ53:12「それゆえ、私は多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった」。
・イザヤ書には二種類のメシア像がある。第一イザヤが待望したメシアは「ダビデのようなメシア」、国を統一し外国からの独立を保つ「栄光のメシア」だ。他方、第二イザヤが示したのは「苦難のメシア」だ。イエスは自己の使命を苦難のメシアと自覚されていたが、人々が求めたのは栄光のメシアだった。
-マルコ8:31-33「イエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。・・・ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」。
・人が求めるのは「栄光のメシア」だ。原理主義キリスト者はこの立場に立つ。ブッシュ政権はテロに対する戦いを「十字軍(crusade)」と呼び、アフガニスタン攻撃を「無限の正義(Operation Infinite Justice)」と名づけた。しかしイエスはこの選択をされず、自ら死ぬことを通して父の栄光を示された。私たちが従うべきはこのイエスである。
-汽撻謄2:20-21「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。
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