すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2009年7月22日祈祷会(詩篇9編、貧しき者の神)
1.異邦人と悪しき者の滅びを祈る

・詩篇9編と10編は元々一つの詩であった。いわゆる「いろは歌」で、各行の冒頭の言葉がヘブル語のアルファベット順に配置され、それが10編にも続いていく。異邦の民を滅ぼし、逆らう者を処罰して下さいと祈る救済の歌だ。
-詩篇9:5-6「あなたは御座に就き、正しく裁き、私の訴えを取り上げて裁いてくださる。異邦の民を叱咤し、逆らう者を滅ぼし、その名を世々限りなく消し去られる」。
・個人の嘆きと民族の嘆きが共に歌われる。個人は民族の罪を担わざるを得ないからだ。祈り手は異邦人占領下で苦難をなめている。その苦難が民族の罪によるものとはいえ、祈り手は苦難を与える直接の敵である異邦人占領者を恨まざるを得ない。捕囚になった民は罪もない敵の幼子さえも殺したいほど憎むと歌った。それが人間の自然だ。
-詩篇137:1-9「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、私たちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。私たちを捕囚にした民が歌をうたえと言うから、私たちを嘲る民が、楽しもうとして『歌って聞かせよ、シオンの歌を』と言うから。どうして歌うことができようか、主のための歌を、異教の地で・・・娘バビロンよ、破壊者よ。いかに幸いなことか、お前が私たちにした仕打ちをお前に仕返す者、お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は」。
・だから、ここに敵を呪い、敵の滅びを願う気持ちが満ち溢れていても当然だ。人間は敵を愛せない存在だ。
-詩篇9:16-18「異邦の民は自ら掘った穴に落ち、隠して張った網に足をとられる。主が現れて裁きをされるとき、逆らう者は自分の手が仕掛けた罠にかかり、神に逆らう者、神を忘れる者、異邦の民はことごとく、陰府に退く」。
・イスラエルは繰り返し異国の民に侵略され、征服された。預言者たちはその苦しみを、不実なイスラエル指導者に対する神の裁きと受け止めた。しかし最初に被害を受けるのは常に社会的弱者である民衆だ。
-哀歌2:20-21「主よ、目を留めてよく見てください。これほど懲らしめられた者がありましょうか。女がその胎の実を、育てた子を食い物にしているのです。祭司や預言者が主の聖所で殺されているのです。街では老人も子供も地に倒れ伏し、おとめも若者も剣にかかって死にました。あなたは、ついに怒り、殺し、屠って容赦されませんでした」。
・そこから発するうめきは敵の滅びだ。自分が罪を犯したことはわかっている。それでも敵を恨まざるを得ない。
-哀歌3:64-66「主よ、その仕業にしたがって彼らを罰してください。彼らの上に呪いを注いで、彼らの心を頑にしてください。主よ、あなたのいます天の下から彼らを追い、御怒りによって滅ぼし去ってください」。

2.貧しき者を救われる主に感謝

・祈り手はそのような不条理の中でも、主は貧しい者、虐げられている者を救われると確信する。
-詩篇9:8-11「主は裁きのために御座を固く据え、とこしえに御座に着いておられる。御自ら世界を正しく治め、国々の民を公平に裁かれる。虐げられている人に主が砦の塔となってくださるように、苦難の時の砦の塔となってくださるように。主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない」。
・主は苦しみの叫びに耳を開かれる。主は貧しいものの叫びを聞いてくださると祈り手は歌う。
-詩篇9:12-13「シオンにいます主をほめ歌い、諸国の民に御業を告げ知らせよ。主は流された血に心を留めてそれに報いてくださる。貧しい人の叫びをお忘れになることはない」。
・亡国の悲惨を歌った哀歌の作者も主の救いを確信する。主は懲らしめてもまた憐れんでくださる。人の子を苦しめ悩ますのは、救済のためであると信じるゆえだ。
-哀歌3:28-33「軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあってもそれが御心なのではない」。
・曽野綾子「哀歌」は旧約聖書・哀歌をベースにした小説だ。そこにおいても信仰が行為を変えていく。
−鳥飼春菜は所属する修道会に命じられて、部族対立の続くルワンダへ赴任し、現地人の修道女たちと協力しながら、子どもたちの世話をする。ところがルワンダの部族対立が激化し、多数派フツ族の民兵は軍を後ろ盾に少数民族ツチ族への暴行や虐殺を開始し、その混乱のなかで修道院にいた春菜は暴徒にレイプされ、妊娠する。彼女は身も心も疲弊しきって日本に帰国するが、修道会は妊娠した修道女を受入れない。春菜は、最初は子どもを中絶しようとする。中絶さえすれば、何事も無かった」ように生きていくことが出来る。しかし相談した神父の言葉「神は御自分で為されたことには必ずその結果に対して何らかの責任をお取りになるだろう」が彼女を変え、彼女は与えられた子と共に生きていくことを決意する。
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