すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2009年7月8日祈祷会(詩篇7編、不当な告発を受けている者の祈り)
1.不当な告発を受けている者の訴え

・詩篇7編は不当な告発を受けている祈り手が、神の審判を求める祈りだ。祈り手は同胞に危害をもたらした廉で告発を受けている。彼はエルサレム神殿に行き、自己の無実を訴える。追い迫る者は彼の命さえ狙っている。
−詩篇7:2-3「私の神、主よ、あなたを避けどころとします。私を助け、追い迫る者から救ってください。獅子のように私の魂を餌食とする者から、だれも奪い返し、助けてくれないのです」。
・この詩篇は伝統的にはサウル王と配下のクシュに追われるダビデの祈りとされているが、前書きは後代の付加であろう。ダビデは王位を狙っているとの不当な疑いをサウルからかけられ、長い逃亡生活を余儀なくされた。
−詩篇7:1「シガヨン。ダビデの詩。ベニヤミン人クシュのことについてダビデが主に向かって歌ったもの」。
・イスラエルでは地元の裁判で決着のつかないものは、中央裁判所であるエルサレム神殿に訴え、そこで神の(具体的には祭司の)審判を受けることが出来た。ソロモンは神殿奉献の祈りの中でそのことに言及している。
−砧鷁Φ8:31-32「もしある人が隣人に罪を犯し、呪いの誓いを立てさせられる時、その誓いがこの神殿にあるあなたの祭壇の前でなされるなら、あなたは天にいましてこれに耳を傾け、あなたの僕たちを裁き、悪人は悪人として、その行いの報いを頭にもたらし、善人は善人として、その善い行いに応じて報いをもたらして下さい」。
・祈り手は「自分は無実であり、もし自分に罪があれば滅ぼされてもかまわない」と訴えている。
−詩篇7:4-6「私の神、主よ、もし私がこのようなことをしたのなら、私の手に不正があり、仲間に災いをこうむらせ、敵をいたずらに見逃したなら、敵が私の魂に追い迫り、追いつき、私の命を地に踏みにじり、私の誉れを塵に伏せさせても当然です」。

2.神の審判を求める祈り

・古代において神の前の裁き(神明裁判)は一般的であったが、多くは探湯(くがたち)のように、占いや呪術性の高いものであった。詩篇では占いではなく、「心とはらわたを調べる方」、原文では知性と情緒が宿るとされた「心臓と腎臓を見極める方」に委ねるとある。人の内面まで探って裁定を下される主の正しさへの信仰が見られる。
−詩篇7:7-10「主よ、敵に対して怒りをもって立ち上がり、憤りをもって身を起こし、私に味方して奮い立ち、裁きを命じて下さい。諸国をあなたの周りに集わせ、彼らを超えて高い御座に再び就いて下さい。主よ、諸国の民を裁いて下さい。主よ、裁きを行って宣言して下さい、お前は正しい、とがめるところはないと。あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし、あなたに従う者を固く立たせてください。心とはらわたを調べる方、神は正しくいます」。
・「主は人の心の奥底を見られる」との信仰はエレミヤもまた持っていたものだ。
−エレミヤ17:9-10「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なる私である。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる」。
・祈り手は「正しく裁く神」、「不正を許さない神」を信頼する。不当な告発に苦しめられている者は、主は正しい裁定をお与え下さると信じて祈る。信仰を持つ者は自分の手で不正を糾す必要はない、何故なら、主は知っていて下さり、それを糾して下さると信じることが出来るからだ。
−詩篇7:11-14「心のまっすぐな人を救う方、神は私の盾。正しく裁く神、日ごとに憤りを表す神。立ち帰らない者に向かっては、剣を鋭くし、弓を引き絞って構え、殺戮の武器を備え、炎の矢を射かけられます」。
・ダビデはサウルに追われていた時、彼を殺す好機を与えられても殺さなかった。主が裁かれると信じる故だ。
-汽汽爛┘24:12-13「わが父よ、よく御覧ください・・・私は上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。御覧ください。私の手には悪事も反逆もありません。あなたに対して罪を犯しませんでした・・・主があなたと私の間を裁き、私のために主があなたに報復されますように。私は手を下しはしません」。
・祈り手は敵を主に告発する。悪を企む者は「天に向かってつばを吐く」、その始末は自分に帰ってくると。
−詩篇7:15-17「彼らは悪をみごもり、災いをはらみ、偽りを生む者です。落とし穴を掘り、深くしています。仕掛けたその穴に自分が落ちますように。災いが頭上に帰り、不法な業が自分の頭にふりかかりますように」。
・最後に祈り手は主を讃美する。彼を取り巻く困難な状況は変わらないが救いは近いことを確信するからだ。
−詩篇7:18「正しくいます主に私は感謝をささげ、いと高き神、主の御名をほめ歌います」。
・彼は「主は人の心の奥底までも見られる方であり、その法廷には潔白な者しか立ち得ない」ことを知る。そしてこの件に関しては彼にやましいところはない。だから「主は救って下さる」と確信する。この「主の正しさ」こそ、祈り手の最後の避け所なのだ。
-詩篇26:1-2「主よ、あなたの裁きを望みます。私は完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。主よ、私を調べ、試み、はらわたと心を火をもって試してください」。
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