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1.タマルの結婚と出産

・ユダは兄弟を離れてアドラムに住み、カナン人の妻をめとり、3人の子(エル、オナン、シラ)を得た。
―創世記38:1-2「ユダは兄弟たちを離れて下り、アドラムびとで、名をヒラという者の所へ行った。ユダはその所で、名をシュアというカナンびとの娘を見て、これをめとり、その所にはいった。」
・長男エルはカナンの女タマルを嫁に迎えたが、エルは早く死に、兄嫁は慣例に従って次兄の嫁になった(レビラート婚、部族を絶やさない為の古代の慣習であった)。
―申命記25:5-7「兄弟が一緒に住んでいて、そのうちのひとりが死んで子のない時は・・・その夫の兄弟が彼女の所にはいり、めとって妻とし、夫の兄弟としての道を彼女につくさなければならない。そしてその女が初めに産む男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名をイスラエルのうちに絶やさないようにしなければならない。」
・次兄オナンはそれを拒否して死んだ。三男シラが兄嫁をもらうべきであるが、舅ユダはシラも死ぬことを恐れて、嫁を実家に帰した(子を産まないで家に戻される=離縁されることは当時の婦人にとって恥辱であった)。
―創世記38:11「ユダはその子の妻タマルに言った、『私の子シラが成人するまで、寡婦のままで、あなたの父の家にいなさい』。彼は、シラもまた兄弟たちのように死ぬかもしれないと、思ったからである。それでタマルは行って父の家におった。」
・年月が経ち、ユダの妻が死んだ。タマルはユダが三男の嫁にも、またユダの後妻に迎えてくれないことを知り、自ら進んで、ユダにより子を得ようとした。
―創世記38:14-18「彼女は寡婦の衣服を脱ぎすて、被衣で身をおおい隠して、テムナへ行く道のかたわらにあるエナイムの入口にすわっていた。彼女はシラが成人したのに、自分がその妻にされないのを知ったからである。ユダは彼女を見たとき、彼女が顔をおおっていたため、遊女だと思い、道のかたわらで彼女に向かって言った、「さあ、あなたの所にはいらせておくれ」。・・・彼は彼女の所にはいった。彼女はユダによってみごもった。」
・こうして、タマルはユダによって、ペレヅとゼラを得た。
―創世記38:27-30「彼女の出産の時がきたが、胎内には、双子があった。出産の時に、ひとりの子が手を出したので、産婆は、「これがさきに出た」と言い、緋の糸を取って、その手に結んだ。そして、その子が手をひっこめると、その弟が出たので、「どうしてあなたは自分で破って出るのか」と言った。これによって名はペレヅ(出し抜き)と呼ばれた。その後、手に緋の糸のある兄が出たので、名はゼラ(赤)と呼ばれた。」


2.タマルの出産の意味

・旧約において、タマルの行為は反倫理とはされず、むしろ子を残す為にとった賞賛の行為と考えられている。
―ルツ4:12「どうぞ、主がこの若い女によってあなたに賜わる子供により、あなたの家が、かのタマルがユダに産んだペレヅの家のようになりますように」。
・そして、このタマルの子ペレヅの子孫からイスラエル王ダビデが出ている。
―ルツ4:18-22「ペレヅの子孫は次のとおりである。ペレヅからヘヅロンが生れ、ヘヅロンからラムが生れ、ラムからアミナダブが生れ、アミナダブからナションが生れ、ナションからサルモンが生れ、サルモンからボアズが生れ、ボアズからオベデが生れ、オベデからエッサイが生れ、エッサイからダビデが生れた。」
・キリストはダビデの末から生れた。マタイはタマルが舅ユダによって子を持ったことを系図に中に隠さない。
―マタイ1:1-3「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、ユダはタマルによるパレスとザラとの父」
・タマルとユダの行為は人間の営みの一つであり、神はそれを許容されるかたであることを聖書は示す。
―ヘブル4:15「この大祭司(キリスト)は、私たちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、私たちと同じように試錬に会われたのである。」
・それはキリストによって全ては新しくされるとの信仰である。
―マタイ22:24-30「モーセはこう言っています、『もし、ある人が子がなくて死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。・・・復活の時には、この女は、七人のうち誰の妻なのでしょうか。みんながこの女を妻にしたのですが」。イエスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。」
―競灰螢鵐5:17「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」
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