すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  詩編  >  2009年6月24日祈祷会(詩篇5編、主の慈しみに包まれて)
1.不当な裁きを受けた者の祈り

・この詩篇の作者は朝、神殿に行き、犠牲を捧げて、祈る。彼は今苦難の中にあり、主の救済を求めている。
-詩篇5:2-4「主よ、私の言葉に耳を傾け、つぶやきを聞き分けてください。私の王、私の神よ、助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります。主よ、朝ごとに、私の声を聞いてください。朝ごとに、私は御前に訴え出て、あなたを仰ぎ望みます」。
・おそらくは虚偽による不当な訴えを受けた信仰者がエルサレム神殿に赴き、主の正しい裁定を求めているのかもしれない。イスラエルにおいては通常の裁判で決着がつかない時には、当事者の主張をエルサレム神殿に訴え、神の裁定を仰ぐ制度があった。古代の上告制度である。
-申命記17:8-9「あなたの町で、流血、もめ事、傷害などの訴えを裁くのが極めて難しいならば、直ちにあなたの神、主が選ばれる場所に上り、レビ人である祭司およびその時、任に就いている裁判人のもとに行って尋ねなさい。彼らが判決を告げるであろう」。
・そこには神こそ正義の最終執行者であるとの信仰がある。だから作者は主の正義に訴え、敵を滅ぼしてくださいと求める。作者は敵を「悪を行う者」、「偽りを語る者」と断罪する。
-詩篇5:5-7「あなたは、決して、逆らう者を喜ぶ神ではありません。悪人は御もとに宿ることを許されず、誇り高い者は御目に向かって立つことができず、悪を行う者はすべて憎まれます。主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし、流血の罪を犯す者、欺く者をいとわれます」。
・祈りの中心は「主の正義」の実現である。新共同訳は9節を「恵みの御業の内に私を導き」と訳すが、恵みと約された原語は「ツェダカー」であり、義と訳すべきだろう。口語訳は「あなたの義を持って私を導き」と訳す。
-詩篇5:8-9「しかし私は、深い慈しみをいただいて、あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し、あなたを畏れ敬います。主よ、恵みの御業のうちに私を導き、まっすぐにあなたの道を歩ませてください。私を陥れようとする者がいます」。
・正義の主は、正しい者を慈しみ(ヘセド)の中に憩わせてくださると作者は言う。自己ではなく、また他者でもなく、主こそ私の裁き主であれば、不当な裁きも糾してくださるとの希望を人は持つことができる。
-イザヤ49:4-5「私は思った、私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である。主の御目に私は重んじられている」。

2.主の慈しみに包まれて

・しかし人間であるから報復の思いを断つことが出来ない。作者は敵を滅ぼしたまえと祈る。
-詩篇5:10-11「彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで、喉は開いた墓、腹は滅びの淵。神よ、彼らを罪に定め、そのたくらみのゆえに打ち倒して下さい。彼らは背きに背きを重ねる反逆の者。彼らを追い落として下さい」。
・「彼らの喉は開いた墓、彼らの腹は滅びの淵」、パウロはこの言葉を用いて人間の罪を断罪した。
-ローマ3:10-13「正しい者はいない。一人もいない。・・・ 彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある」。
・作者は報復を求めるが、それは主が正しい裁きをなさる求めであり、自己の手で報復しようとはしない。だから彼の心は苦悩の中にあっても平安である。
-詩篇5:12-13「あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い、とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ、あなたによって喜び誇ります。主よ、あなたは従う人を祝福し、御旨のままに、盾となってお守りくださいます」。
・2001年9月11日、テロリストの攻撃を受けて自国民3千人を殺されたアメリカのブッシュ大統領は、報復を求めて、アフガニスタンに侵略し、イラクを攻めた。それから7年、アメリカ軍死者は4千人、イラク人死者は10万人と言われている。多くの教会関係者は改めてローマ13章の言葉を思い起こしている。
-ローマ12:19-21「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が報復すると主は言われる』と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。
・「あなたの義を持って私を導いて下さい」(5:9)。何故なら「私を裁かれるのは主であることを知るからです」、この信仰こそ私たちの生活基準にすべきだろう。
-汽灰螢鵐4:3-5「私にとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。私は、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それで私が義とされているわけではありません。私を裁くのは主なのです。主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」。
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