すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  イザヤ書  >  2009年4月2日祈祷会(イザヤ34章、エドムの聖絶〜人間の罪と裁き)
1.エドムの罪と裁き

・イザヤ34章は終末におけるエドムの裁きを告げる。エドムは死海南部の砂漠の国であり、ヤコブ(イスラエル)の兄弟エソウが住んだ国であり、イスラエルの兄弟国であった。その兄弟の民がユダ王国がバビロニア軍によって滅ぼされた時、混乱に乗じてユダに侵略し、人々の財宝を奪い、逃れる者を殺し、敵に引渡した。イスラエルは報復を誓う。
-詩篇137:7「主よ、覚えていてください、エドムの子らを、エルサレムのあの日を、彼らがこう言ったのを『裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで』」。
・預言者オバデヤはこのエドムの無法に主が報復されるように求める。
-オバデヤ1:1-18「主なる神はエドムについてこう言われる・・・私はエドムから知者を、エサウの山から知恵を滅ぼす・・・兄弟ヤコブに不法を行ったので、お前は恥に覆われ、とこしえに滅ぼされる・・・主の日は、すべての国に近づいている。お前がしたように、お前にもされる」。
・第三イザヤもエドムへの報復を祈る。自分を苦しめた者が裁かれる、被害者にとってはそれこそが正義だ。
-イザヤ63:1-6「エドムから来るのは誰か。ボツラから赤い衣をまとって来るのは・・・なぜ、あなたの装いは赤く染まり衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。私はただひとりで酒ぶねを踏んだ・・・私は怒りをもって彼らを踏みつけ憤りをもって彼らを踏み砕いた。それゆえ、私の衣は血を浴び、私は着物を汚した。私が心に定めた報復の日、私の贖いの年が来たので・・・私の憤りをもって彼らを酔わせ、彼らの血を大地に流れさせた」。
・このような文脈の中でイザヤ34章は描かれる。そこでは殺された人々の死臭さえ良い香りになる。
-イザヤ34:2-3「主はすべての国に向かって憤りを発し、怒りは、その全軍に及ぶ。主は絶滅することを定め、彼らを屠るために渡された。刺し貫かれた人々は投げ捨てられ、死骸は悪臭を放ち、山々はその血によって溶ける」。
・天において既に血に浸された剣が今地上に下され、エドムの民を裁くと預言は続く。
-イザヤ34:5-6「天において、わが剣は血に浸されている。見よ、剣はエドムの上に下る、絶滅に定められた民を裁くために。まことに、主の剣は血にまみれ、脂肪を滴らす。小羊と雄山羊の血にまみれ、雄羊の腎臓の脂肪を滴らす。主がボツラでいけにえを屠り、エドムの地で大いなる殺戮をなさるからだ」。
・加害を受けた人々は飽くなき報復を求める。預言者はエドムが混沌(カオス)に戻されると預言する。混乱(トーフー)を計り縄とし、空虚(ボーフー)を錘とする(34:11)。トーフー・ワボーフーは創造前のカオスを指す。
-創世記1:2「地は混沌(トーフー・ワボーフー)であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。

2.エドムの聖絶の意味を考える

・エドムの人々は何故ユダに侵略し、略奪を働いたのだろうか。それは彼らがこれまでイスラエルの絶えざる侵略に悩まされていたからだ。ダビデはアカバ湾侵略のためにエドム人を殺した。ユダ侵略はエドムの復讐なのだ。
-競汽爛┘8:13「ダビデはアラムを討って帰る途中、塩の谷でエドム人一万八千を討ち殺し、名声を得た」。
-砧鷁Φ11:15「かつてダビデがエドムを征服したとき、軍の司令官ヨアブが戦死者を葬るために上って行き、エドムの男子をことごとく打ち殺した」。
・歴史は人間の血に満ちている。預言者はそこに神の摂理を見る。何故ならば、歴史はHis Story、神の歴史だからだ。故にエドムの滅亡は主の裁きによるものだと彼は確信する。
-イザヤ34:8-10「まことに、主は報復の日を定められる、シオンにかかわる争いを正すための年を。エドムの涸れ谷は変わってピッチとなり、その土は硫黄となる。その土地はピッチとなって燃え上がる。夜も昼も消えることなくとこしえに、煙を立ち昇らせ、代々にわたって廃虚となり、永遠にそこを通る人はない」。
・人間は民族の枠を超えることが出来ない。丸木夫妻の描く原爆図「からす」では、長崎の被爆地において日本人遺体が処理された後、徴用されて犠牲になった朝鮮人被爆者遺体は放置され、からすがそれをついばむ絵が記されている。人は屍さえも差別するのだろうか。詩篇137編では捕囚の地でバビロン人の幼子の頭を岩に砕く報復が歌われる。
-詩篇137:1-9「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、私たちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。私たちを捕囚にした民が歌をうたえと言うから・・・どうして歌うことができようか、主のための歌を、異教の地で・・・娘バビロンよ、破壊者よ、いかに幸いなことか、お前が私たちにした仕打ちをお前に仕返す者、お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は」。
・人間の罪は神自らがその贖いを引き受けずして赦されることはない。だから一人子イエスが十字架で死なれた。
-汽撻謄2:23-24「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」。
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