すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.預言から黙示へ

・イザヤ24-27章はイザヤ黙示録だ。イザヤの時代はまだダビデ王国は健在であり、エルサレムには神殿があった。イザヤは滅びを預言したがまだ希望があった。エルサレム滅亡後、預言は絶え、黙示の時代に入る。現実世界に希望がない故に、主の日を待ち望む。イザヤ24章は再創造のための破壊が述べられ、25章では再創造後の祝宴が歌われる。
-イザヤ25:1-3「主よ、あなたは私の神、私はあなたをあがめ、御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された。・・・あなたは都を石塚とし、城壁のある町を瓦礫の山とし、異邦人の館を都から取り去られた。・・・それゆえ、強い民もあなたを敬い、暴虐な国々の都でも人々はあなたを恐れる」。
・主は奢る者を懲らしめ、貧しい者を引き揚げて下さる。イスラエルの終末は敵が滅び、自分たちが救われる日だ。
-イザヤ25:4-5「まことに、あなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦、豪雨を逃れる避け所、暑さを避ける陰となられる。暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨、乾ききった地の暑さのようだ。あなたは雲の陰が暑さを和らげるように、異邦人の騒ぎを鎮め、暴虐な者たちの歌声を低くされる」。
・この終末思想は新約にも継承される。受胎告知を受けたマリアの賛歌にもイザヤ書が響く。
-ルカ1:52-54「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」。
・そのイスラエルの終末思想がイザヤ25章では全民族の救いへと展開する。終末の神の国の祝宴では、イスラエルのみならず、全ての民が祝宴に預かるように招かれる。これまでの旧約には見られなかった考え方だ。
-イザヤ25:6-8「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる」。

2.主の日の祝宴

・全民族の救いは旧約においては完結しない。モアブの滅亡を祝う10-12節がそうだ。モアブはモーセの時代からイスラエルに敵対し、イスラエルが捕囚となった時には繰り返し略奪した。その恨みがここに現れている。
-イザヤ25:10-12「主の御手はこの山の上にとどまる。モアブは主の下に踏みにじられる。わらが踏みつけられて堆肥の山にされるように。モアブはそこで手を広げる、泳ぐ人が泳ごうとして手を広げるように。しかし、巧みな手の業を重ねても、主はその誇りを打ち倒される。主はお前の城壁の砦と塔を砕き、打ち倒して地の塵に伏させる」。
・全ての民は主の山に預かり、祝宴を楽しむ。それは主がイスラエルの恥を清めて下さったからだ。捕囚以降、外国の民に支配され、辱めを受けた民が今慰められると預言者は歌う。ここでも神はまだ民族の神だ。
-イザヤ25:8-9「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。その日には、人は言う。見よ、この方こそ私たちの神。私たちは待ち望んでいた。この方が私たちを救ってくださる。この方こそ私たちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう」。
・イエスはこの「民族の救い」という信仰から自由であられた。イエスにとって、神の国の祝宴に預かる者は神に従う者たちだ。イスラエルであっても従わない者は神の国から追い出される。マタイ8章の記述は旧約からの飛躍だ。旧約においては周辺的であった全ての民の救いがイエスにおいては中心になる。
-マタイ8:11-12「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」。
・「主なる神は・・・死を永久に滅ぼしてくださる」、イザヤ25章には死に対する勝利が歌われる。旧約において死が克服されると言う思想は少ない。この箇所はパウロが「主は死に勝たれた」と叫ぶ時の先駆けになっている。
-汽灰螢鵐15:55「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」。
・私たちはいつも過去から現在を見る。その時、現在が絶望的であれば、「過去は良かった」という嘆きしか出ない。黙示は未来から現在を見る。その時、現在が闇であっても、その闇が取り去られることを希望し、やがてそれは現実になる。ヨハネ黙示録の記述はイザヤ25章と酷似する。イザヤ25章は不完全ながら新約を先取りしている。
-ヨハネ黙示録21:1-4「私はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更に私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」。
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