すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  イザヤ書  >  2008年11月27日祈祷会(イザヤ20章、裸にならされた預言者イザヤ)
1.アッシリアへの反乱に加わるなと示威行為を行う預言者

・イザヤ20章はユダを巻き込んだ反アッシリア戦争(前713-711年)を背景にしている。当時、パレスチナ諸国はアッシリアへの重い朝貢にあえいでいた。そこにエジプトに新王朝が出現し、諸国はエジプトを頼みに、ペリシテのアシドドを中心に反アッシリア同盟を結成し、反乱を起こした。反乱はアッシリアの武力制圧によって終息する。
-イザヤ20:1「アッシリアの王サルゴンに派遣された将軍がアシュドドを襲った年のことである。彼はアシュドドと戦い、これを占領した」。
・この動きは民族感情から見れば独立運動であり、愛国的かもしれないが、預言者から見れば、国を滅ぼす愚かな行為だった。預言者イザヤは、反アッシリア同盟に加担しないようにユダの人々に働きかける。
-イザヤ20:2「それに先立って、主はアモツの子イザヤを通して、命じられた『腰から粗布を取り去り、足から履物を脱いで歩け歩け』。彼はそのとおりにして、裸、はだしで歩き回った」。
・「腰から荒布をとれ」、貴族であるイザヤにとって、裸になることは屈辱であった。しかし主はあえて「裸になれ」と言われた。裸、裸足で人前を歩くことは、捕虜や敗北者の目印であった。
-アモス2:14-16「そのときは、素早い者も逃げ遅れ、強い者もその力を振るいえず、勇者も自分を救いえない。・・・勇者の中の雄々しい者も、その日には裸で逃げる、と主は言われる」。
・3-4節にイザヤが裸、裸足で預言したことの意味が示される。エジプトとクシュ(エチオピア)を頼ってアッシリアに反乱を起こした時、若者も老人も裸足、裸で囚われていくと預言される。
-イザヤ20:3-4「主は言われた『私の僕イザヤが、エジプトとクシュに対するしるしと前兆として、裸、はだしで三年間歩き回ったように、アッシリアの王は、エジプトの捕虜とクシュの捕囚を引いて行く。若者も老人も、裸、はだしで、尻をあらわし、エジプトの恥をさらしつつ行く』。
・王や高官たちはエジプトやアシドドの王たちと使者を交わし、謀略を練っていた。民衆はアッシリアからの独立を熱狂的に支持していた。人々はイザヤを嘲笑し、売国奴とののしったであろう。3年後の前711年にアッシリア王サルゴン2世は大軍を率いてパレスチナに侵攻し、アシドドは征服された。エジプトからの援軍は来なかった。
-イザヤ20:5「彼らは自分たちの望みをかけていたクシュのゆえに、誇りとしていたエジプトのゆえに、恐れと恥をこうむるであろう」。
・エジプトは反アッシリアを画策しながら、いざアッシリアの大軍が来ると、おじけた。同盟は常にそうだ。同盟国は自国の存亡をかけてまでも他国の救済をしない。日本が頼る日米同盟も有事の時には同じ結果になるだろう。
-イザヤ20: 6「その日には、この海辺の住民は言う『見よ、アッシリアの王から救われようと助けを求めて逃げ、望みをかけていたものがこの有様なら、我々はどうして逃げ延びえようか』」。

2.人々に歓迎されない預言者

・預言者は国の滅亡や災いを警告する。だから人びとは預言者の言葉を聞きたがらない。預言者エレミヤも語れと言われて語った言葉がすぐには成就しなかった時、人びとからの嘲笑を受け、その不満を主に訴える。
-エレミヤ15:10-11「ああ、私は災いだ。わが母よ、どうして私を産んだのか。国中で私は争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男とされている。私はだれの債権者になったことも、だれの債務者になったこともないのに、だれもが私を呪う」。
・矢内原忠雄はイザヤ書の預言の中に、中国への侵略をやめない日本軍国主義への神の裁きを見て、それを「国家の理想」(1937年、昭和12年)としてまとめて月刊誌に公表し、大学教授の職を追われた。敗戦の8年前だ。
−矢内原忠雄『通信』1937年10月号「アッシリアの罪はユダの罪より大きい。・・・今日は、虚偽の世において、我々のかくも愛したる日本の国の理想、あるいは理想を失った日本の葬りの席であります。私は怒ることも怒れません。泣くことも泣けません。どうぞ皆さん、もし私の申したことがおわかりになったならば、日本の理想を生かすために、一先ずこの国を葬ってください」。
・カール・バルトは1916年2月6日、自分の教会で「偽りの預言者とは人々に満足を与える牧師であり、あなた方は生活の美しい飾りとしてキリスト教を好む」と説教した。多くの教会員は怒ってバルトの牧会する教会から離れたという。ある時、説教者はこのような説教を行うことを神から迫られる。
・国の滅びを預言する。時流に逆らってでも必要な言葉を述べる。その時、預言者は迫害される。イエスが殺されたのもそうであった。イエスは殺された、しかし神はイエスを復活させられた。この復活を信じる時に人は強くなれる。
-使徒言行録2:36「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。
プリンタ用画面
友達に伝える
前
2008年11月19日祈祷会(イザヤ19章、アッシリアとエジプトの回心を迫る預言者)
カテゴリートップ
イザヤ書
次
2008年12月4日祈祷会(イザヤ21章、倒れた、大バビロンが倒れた)