すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.国家滅亡の危機の中で

・イザヤ書は三つの預言が合本されている。1−39章(第一イザヤ)は、前700ごろに生きたイザヤの預言であり、アッシリアの侵攻に揺れる国家危機の中で語られている。40−55章(第二イザヤ)は、国家が滅ぼされ、バビロンに捕囚となった民に対しての預言であり、56−66章(第三イザヤ)はエルサレム帰還後の預言である。
・第一イザヤの時代はアッシリアとの攻防の時だ。ユダの王はウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代である。
・前701年、アッシリア王センナケリブはパレスチナに侵攻し、ユダの町々を占領し、エルサレムを大軍で囲んだ。イザヤ1章の預言はその時代背景の中で語られている。
−イザヤ1:7-9「お前たちの地は荒廃し、町々は焼き払われ、田畑の実りは、お前たちの目の前で、異国の民が食い尽くし、異国の民に覆されて、荒廃している。そして、娘シオンが残った。包囲された町として。ぶどう畑の仮小屋のように、きゅうり畑の見張り小屋のように。もし、万軍の主が私たちのために、わずかでも生存者を残されなかったなら、私たちはソドムのようになり、ゴモラに似たものとなっていたであろう」。
・何故イスラエルがアッシリアの暴虐に悩まされるのか、主がアッシリアをイスラエルを打つ鞭とされたからだ。
-イザヤ1:2-5「私は子らを育てて大きくした。しかし、彼らは私に背いた。牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、私の民は見分けない。・・・何故、お前たちは背きを重ね、なおも打たれようとするのか。頭は病み、心臓は衰えているのに」。
・イザヤが召命を受けて預言者活動を始めたのは前742年、ウジヤ王の死去の時であった。
-イザヤ6:1「ウジヤ王が死んだ年のことである。私は、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た」。

2.儀式ではなく正義を

・エルサレムはアッシリアの大軍に包囲されていた。アッシリアは主に頼るユダ王国を嘲笑していた。主(ヤハウェ)など、単なる部族神ではないか、私たちの武力の前には無力だと。
-粁鷁Φ18:35「国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国を私の手から救い出したか。それでも主はエルサレムを私の手から救い出すと言うのか」
・ユダの民はアッシリアからの救済を願って、エルサレム神殿に多くの捧げものをした。しかし、主はその奉納を拒否されるとイザヤは預言する。当時の祭司制度を否定する大胆な預言である。
-イザヤ1:11-14「お前たちのささげる多くのいけにえが私にとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に、私は飽いた。・・・誰がお前たちにこれらのものを求めたか、私の庭を踏み荒らす者よ。むなしい献げ物を再び持って来るな。・・・それは私にとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた」。
・イザヤは続ける「主が求められるのは捧げ物や儀式ではなく、正義である。お前たちの手は血で汚れている」。
-イザヤ1:15-17「お前たちが手を広げて祈っても、私は目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いを私の目の前から取り除け。・・・搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」。
・イスラエルはかつてはエジプトで奴隷であった。その彼らを主は救われたのに、今は主人になって奴隷や寡婦を痛めつける。何故、私の救いを忘れたのか、何故戒めを守るとの誓いをわすれたのかと主は問われる。
-イザヤ1:21-23「公平が満ち、正義が宿っていたのに、今では人殺しばかりだ。・・・支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず、やもめの訴えは取り上げられない」。
・私はお前たちに火の試練を与えると主は言われる。灰汁をもってお前たちの悪を溶かし、不純なものを取り去ると。主は、アッシリアの包囲、飢餓の苦しみを通して、イスラエルの悔い改めを求めておられる。
-イザヤ1:25-26「私は手を翻し、灰汁をもってお前の滓を溶かし、不純なものをことごとく取り去る。・・・その後に、お前は正義の都、忠実な町と呼ばれるであろう」。
・裁きを通して救いが与えられる。イザヤは厳しい主の言葉の中に、救いの預言を見ている。
-イザヤ1:27-28「シオンは裁きをとおして贖われ、悔い改める者は恵みの御業によって贖われる。背く者と罪人は共に打ち砕かれ、主を捨てる者は断たれる」。
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2008年7月17日祈祷会(イザヤ2章、主の平和を求めよ)