すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.サウルを殺さないダビデ


・サウル王から命を狙われたダビデは荒野を逃走するが、サウルは三千の兵を率いてダビデ討伐のために出征する。途中サウルは用足しのために洞窟に入るが、そこはダビデと兵が隠れていた。ダビデの部下は言った「サウルを殺す絶好の機会が来ました」。ダビデは剣を持ってサウルに近づくが、殺さずに上着の一部を切り取る。
―汽汽爛┘24:4-5「途中、羊の囲い場の辺りにさしかかると、そこに洞窟があったので、サウルは用を足すために入ったが、その奥にはダビデとその兵たちが座っていた。ダビデの兵は言った『主があなたに、私はあなたの敵をあなたの手に渡す。思いどおりにするがよいと約束されたのは、この時のことです』。ダビデは立って行き、サウルの上着の端をひそかに切り取った」。
・ダビデはサウルを殺そうとしたが、やがて自らの行為を恥じた。彼は言う「主が油を注がれた方を殺すことは主がお許しにならない」。
―汽汽爛┘24:6-7「ダビデはサウルの上着の端を切ったことを後悔し兵に言った『私の主君であり、主が油を注がれた方に、私が手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ』」。
・ダビデは洞窟を出たサウルに和解を呼びかける。
―汽汽爛┘24:8-16「わが主君、王よ。・・・今日、主が洞窟であなたを私の手に渡されたのを、あなた御自身の目で御覧になりました。あなたを殺せと言う者もいましたが、あなたをかばって、『私の主人に手をかけることはしない。主が油を注がれた方だ』と言い聞かせました。わが父よ、あなたの上着の端が私の手にあります。私は上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。・・・主が裁き手となって、私とあなたの間を裁き、私の訴えを弁護し、あなたの手から私を救って下さいます様に。」
・この言葉にサウルは泣いて悔い改める。
―汽汽爛┘24:17-22「お前は私より正しい。お前は私に善意を持って対し、私はお前に悪意をもって対した。・・・主が私をお前の手に引き渡されたのに、お前は私を殺さなかった。・・・今私は悟った。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される。主によって私に誓ってくれ。私の後に来る私の子孫を断つことなく、私の名を父の家から消し去ることはない、と。」


2.善を持って悪に勝てるのか


・ダビデのしたことは善を持って悪に対処しようとしたことだ。「主が油を注がれた方を私は殺さない」。復讐は主に委ねる、悪に報いるに悪を持ってしない。パウロがローマ12章で人々に教えたことだ。
―ローマ12:19-21「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。復讐は私のすること、私が報復すると主は言われると書いてあります。あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。
・サウルは悔い改めたように見えたが、現実にはこの後もダビデの命を狙う。キング牧師は「敵を愛せ」と非暴力の黒人解放運動を進めたが、彼自身は白人に殺されている。現実の世界は「善を持って悪に勝つ」を許さない。
―M.R.キング「汝の敵を愛せよ」から:「イエスは汝の敵を愛せよと言われたが・・・イエスは汝の敵を好きになれとは言われなかった。我々の子供たちを脅かし、我々の家に爆弾を投げてくるような人をどうして好きになることが出来よう。しかし、好きになれなくても私たちは敵を愛そう。何故ならば、敵を憎んでもそこには何の前進も生まれない。憎しみは憎しみを生むだけだ。また、憎しみは相手を傷つけると同時に憎む自分をも傷つけてしまう悪だ。自分たちのためにも憎しみを捨てよう。愛は贖罪の力を持つ。愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力なのだ・・・我々に苦難を負わせるあなた方の能力に対し、苦難に耐える我々の能力を対抗させよう。あなた方のしたいことを我々にするがいい、そうすれば我々はあなた方を愛し続けるだろう。・・・我々は耐え忍ぶ能力によってあなた方を摩滅させることを覚えておくがいい。何時の日か我々は自由を勝ち取るだろう。しかし、それは我々自身のためだけではない。我々はその過程であなた方の心と良心に強く訴えて、あなた方を勝ち取るだろう。そうすれば我々の勝利は二重の勝利となろう」。
・それにもかかわらず神の計画は進行する。キング誕生日はアメリカの祝日となり、ダビデはイスラエルの王となる。イエスは悪に報復せず十字架で死なれた。無意味に思われた十字架が救いであったことをその後の歴史は示す。
―汽撻謄2:20-24「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。・・・キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。・・・ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。・・・そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」。
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