すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  サムエル記上(完)  >  2007年1月31日祈祷会(サムエル記上18章、ダビデを妬むサウル〜傲慢の罪)

1.ダビデを妬むサウル


・ダビデはゴリアトを倒し、それを契機にダビデはイスラエル軍の武将に取り立てられていく。連戦連勝の軍に国民は歓喜し、人気は若い武将ダビデに集まる。そのことがサウルにダビデに対する嫉妬をもたらした。
―汽汽爛┘18:6-9「ペリシテ人を討ったダビデも帰って来ると、イスラエルのあらゆる町から女たちが出て来て、太鼓を打ち、喜びの声をあげ、三絃琴を奏で、歌い踊りながらサウル王を迎えた。女たちは楽を奏し、歌い交わした『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』。サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって言った『ダビデには万、私には千。あとは、王位を与えるだけか』。この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった」。
・サウルは「王位はあなたを離れた」と宣告され、その日を境に悪霊に悩まされる。悪霊はサウルの心を蝕み、ある時サウルはダビデを殺そうと槍を振りかざし、ダビデは危うく難を逃れた。
―汽汽爛┘18:10-11「神からの悪霊が激しくサウルに降り、家の中で彼をものに取りつかれた状態に陥れた。ダビデは傍らでいつものように竪琴を奏でていた。サウルは、槍を手にしていたが、ダビデを壁に突き刺そうとして、その槍を振りかざした。ダビデは二度とも、身をかわした」。
・ダビデには祝福が、サウルには悪霊が下る。サウルはますますダビデを憎むようになった。
―汽汽爛┘18:12-15「主はダビデと共におられ、サウルを離れ去られたので、サウルはダビデを恐れ、ダビデを遠ざけ、千人隊の長に任命した。ダビデは兵士の先頭に立って出陣し、また帰還した。主は彼と共におられ、彼はどの戦いにおいても勝利を収めた。サウルは、ダビデが勝利を収めるのを見て、彼を恐れた」。
・主は悪霊を通して、サウルに王の退陣を迫られた。サウルは従わず、悪霊に悩まされ、最後は不遇の死を遂げる。主の御心が離れた時、人は退くべきだ。牧師の出処進退もそうだ。選びは神の決断であり、人はそれに従うべきだ。
―ローマ9:20-21「造られた物が造った者に、『どうして私をこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」。
・これは見捨てではない。主はイサクを選ばれ、イシマエルを選ばれなかったが、イシマエルの生存も許されている。
―創世記21:14-18「ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。・・・彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた。神は子供の泣き声を聞かれ、神の御使いがハガルに呼びかけて言った『ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。・・・私は、必ずあの子を大きな国民とする』」


2.傲慢の罪


・サウルはダビデを戦死させようとし、娘ミカルを与える見返りに、ペリシテ人の陽皮100枚を持ってくるように命じる。100人のペリシテ人を結納代わりに殺せとの命令だ。
―汽汽爛┘18:21-26「サウルは・・・ダビデに言った『二番目の娘を嫁にし、その日私の婿になりなさい』。・・・サウルは言った『王は結納金など望んではおられない。王の望みは王の敵への報復のしるし、ペリシテ人の陽皮百枚なのだと』。サウルはペリシテ人の手でダビデを倒そうと考えていた」。
・ダビデは要求された100人ではなく、200人を討って、その陽皮を王に差し出す。こうしてダビデは王の娘婿になるが、サウルはますますダビデを憎んだ。
―汽汽爛┘18:26-29「ダビデは・・・自分の兵を従えて出立し、二百人のペリシテ人を討ち取り、その陽皮を持ち帰った。王に対し、婿となる条件である陽皮の数が確かめられたので、サウルは娘のミカルを彼に妻として与えなければならなかった。サウルは、主がダビデと共におられること、娘ミカルがダビデを愛していることを思い知らされて、ダビデをいっそう恐れ、生涯ダビデに対して敵意を抱いた」。
・サウルは王としてダビデの勝利を祝うべきであった。ダビデにより、国はペリシテ人の侵略から守られた。しかし彼には出来なかった。ダビデに対する嫉妬、王を追われる恐怖、それは自己を中心に見る「傲慢の罪」であった。

―C.S.ルイス:キリスト教の精髄から「本質的、究極的な悪徳は傲慢です。傲慢は、何かを所有するだけでは満足しません。それは隣人より多くのものを所有することで、はじめて満足感を覚えます。傲慢の本質は他人を比較します。他に抜きんでることを望みます。国家、また家庭における悲惨の主要な原因は傲慢でした。傲慢はつねに敵意と隣り合わせです。・・・神において人は、あらゆる点で自分より無限にすぐれた存在と出会います。神をそのような存在として知り、それに比べて自分をまったく取るに足らぬものと感じるのでなければ、神を知っているとはいえません。傲慢な人間は、つねに人を見下します。何かを下に見るという姿勢を取るかぎり、自分の上にあるものに気づくことはないでしょう。・・・私たちには自分の内にある傲慢の危険性を調べる方法があります。信仰生活を続けているうちに自分が良い人間であるかのように思いこみ、とりわけ他の誰かに比べずっと良い人間であるかのように思うようになったとしたら、それは神でなく、悪魔が私たちに働きかけているというしるしでしょう」。

・私たちは、ルカ18:10-14にその典型を見ることが出来る。
―ルカ18:10-14「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った『神様、私は他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』。ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った『神様、罪人の私を憐れんでください』。言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。
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