すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.イスラエルへの鞭としてのミディアン人

・士師記6−9章はギデオンの物語である。著書はイスラエルの罪のゆえに外敵が侵入したと繰り返す。外敵が神の鞭であり、国難は国家の罪に対する裁きである。砂漠の民であるミディアン人は収穫期になると、他の部族とともにらくだの大部隊で襲い掛かり、全ての収穫を持ち去り、人々は平地には住めないほどの略奪を受けた。
―士師記6:3-5「イスラエルが種を蒔くと、ミディアン人は、アマレク人や東方の諸民族と共に上って来て攻めたてた。彼らは・・・命の糧となるものは羊も牛もろばも何も残さなかった。彼らは来てこの地を荒らしまわった」。
・イスラエルの人々は主に助けを求めて祈った。主が使わされたのは、解放者ではなく預言者だった。災いの原因はミディアン人にあるのではなく、イスラエルにあることを知るようにである。
―士師記6:7-10「イスラエルの人々がミディアン人のことで主に助けを求めて叫ぶと、主は一人の預言者をイスラエルの人々に遣わされた。『私は・・・その地をあなたたちに与えた。私があなたたちの神、主であり・・・アモリ人の神を畏れ敬ってはならない、と私は告げておいた。だがあなたたちは、私の声に聞き従わなかった』」。
・解放の前に改革が、赦しの前には悔い改めが必要である。安価な赦しは何も生まない。
―エレミヤ29:10-11「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、私はあなたたちを顧みる。私は恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。私は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」。


2.ギデオンの召命

・ギデオンが召命を受けたのは、彼がミディアン人を恐れて、こっそりと小麦を打っていた時だった。彼は召命を受けても、主の言葉を信じない。まさに臆病な、そして不信仰の人間が士師として立てられた。
―士師記6:11-13「ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた。主の御使いは彼に現れて言った『勇者よ、主はあなたと共におられます』。ギデオンは彼に言った。『私の主よ、お願いします。主なる神が私たちと共においでになるのでしたら、何故このようなことが私たちに降りかかったのですか。・・・今、主は私たちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれました』」。
・ギデオンは主の召しを信じない。彼は繰り返し、しるしを求め、与えられて、初めて信じる。
―士師記6:21-22「主の御使いは手にしていた杖の先を差し伸べ、肉とパンに触れた。すると、岩から火が燃え上がり、肉とパンを焼き尽くした。主の御使いは消えていた。ギデオンはこの方が主の御使いであることを悟った」。
・ギデオンが最初に行ったことは、町の偶像の祭壇を壊すことだった。しかし、人の目を恐れながら行う。
―士師記6:25-27「その夜、主はギデオンに言われた『あなたの父のものであるバアルの祭壇を壊し、その傍らのアシェラ像を切り倒せ』。ギデオンは召し使いの中から十人を選び、主がお命じになったとおりにした。だが、父の家族と町の人々を恐れて日中を避け、夜中にこれを行った」。
・町の人々は怒ってギデオンを殺そうとする。人々は苦難の中で主を求め、主は預言者を通して偶像崇拝こそ苦難の原因と示されたが、偶像が倒されると、人々はその犯人を殺そうとする。彼らには悔い改めが無かった。
―士師記6:30「町の人々はヨアシュに言った『息子を出せ。息子は殺さねばならない。バアルの祭壇を壊し、傍らのアシェラ像も切り倒した』」。
・ギデオンの父は祭司だった。彼はこの時、偶像礼拝の過ちを悔い、息子を弁護する「バアルが神であれば自分で報復すれば良い」。偶像崇拝の神は何も出来ない。偶像であるからだ。
―士師記6:31-32「「あなたたちはバアルをかばって争うのか、バアルを救おうとでもいうのか。バアルをかばって争う者は朝とならぬうちに殺される。もしバアルが神なら、自分の祭壇が壊されたのだから自分で争うだろう」
・この事件を契機に、出身のマナセ族だけでなく、他の部族も加わり、ミディアン人と対峙する軍が生まれた。
―士師記6:34-35「主の霊がギデオンを覆った。ギデオンが角笛を吹くと、アビエゼルは彼に従って集まって来た。彼がマナセの隅々にまで使者を送ると、そこの人々もまた彼に従って集まって来た。アシェル、ゼブルン、ナフタリにも使者を遣わすと、彼らも上って来て合流した」。
・神はギデオンにもモーセにもしるしを与えられた。そのしるしで人々は励まされて、立ち上がることが出来る。私たちの教会もレビ記のしるしに励まされている。
―レビ記19:23-25「あなたたちが入ろうとしている土地で、果樹を植える時は、その実は無割礼のものと見なさねばならない。それは三年の間、無割礼のものであるから、それを食べてはならない。四年目にすべての実は聖なるものとなり、主への賛美の献げ物となる。五年目にあなたたちはその実を食べることができる。こうすれば収穫は増し加えられる。わたしはあなたたちの神、主である」。
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