すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.共同体の救い


・聖書の信仰は共同体の救いだ。申命記21章の諸規定はそのことを示す。犯人がわからない死体を見つけたら、最も近い共同体において雌牛を犠牲として献げて血の贖いをせよと命じられる。
-申命記21:1-4「あなたの神、主があなたに与えて、得させられる土地で、殺されて野に倒れている人が発見され、その犯人がだれか分からないならば、・・・死体に最も近い町の長老たちは・・・雌牛を水の尽きることのない川の、耕したことも種を蒔いたこともない岸辺に連れて行き、その川で雌牛の首を折らねばならない」。
・血を流した場合はその贖いをしなければならない。犯人が分かっている場合はその犯人を死刑にし、わからない場合は、代わりに雌牛を献げる。共同体の汚れを贖うためだ。
-申命記21:7-8「『我々の手はこの流血事件とかかわりがなく、目は何も見ていません。主よ、あなたが救い出されたあなたの民、イスラエルの罪を贖い、あなたの民、イスラエルのうちに罪なき者の血を流した罪をとどめないでください』。こうして、彼らの血を流した罪は贖われる」。
・反抗する息子がありどうしようもない時には、共同体の長老の所に連れて行け。長老は息子を諌め、息子が悔い改めなければ、その息子を殺す。聖なる地から悪を取り除くためだ。
-申命記21:18-21「ある人にわがままで、反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、戒めても聞き従わないならば、両親は彼を取り押さえ、その地域の城門にいる町の長老のもとに突き出して、町の長老に、『私たちのこの息子はわがままで、反抗し、私たちの言うことを聞きません。放蕩にふけり、大酒飲みです』と言いなさい。町の住民は皆で石を投げつけて彼を殺す。あなたの中から悪を取り除かねばならない」。
・木にかけられた死体を翌朝まで放置してはならない。神が与えられた土地を汚してはならないと命じられる。
-申命記21:22-23「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない」。
・ここにあることはいずれも共同体から悪を取り除けという命令だ。聖書の信仰は個人の出来事ではなく、共同体の出来事だ。私たちが礼拝に集うことも、自分のためであると同時に他者の救いのためだ。


2.神を愛し、隣人を愛せ。


・神を愛し、隣人を愛せ。それが律法だと言われる。戦いで捕虜になった女を妻としても良いが、その女に誠意を尽くせと言われている。捕虜の女もまた隣人である。
-申命記21:10-14「捕虜を捕らえたとき、その中に美しい女性がいて、心引かれ、妻にしようとするならば、自分の家に連れて行きなさい。彼女は髪を下ろし、つめを切り、捕虜の衣服を脱いで、あなたの家に住み、自分の両親のために、一か月の間嘆かねばならない。その後、あなたは彼女のところに入ってその夫となり、彼女はあなたの妻となる。もし彼女があなたの気に入らなくなった場合、彼女の意のままに去らせねばならない。決して金で売ってはならない。既に彼女を辱めたのであるから、奴隷のように扱ってはならない」。
・妻を二人もち、うとむ妻の子が長子であるならば、その子に長子権を与えよ。子に対して不公平ではいけない。
-申命記21:15-17「二人の妻があり、一方は愛され、他方は疎んじられた。・・・疎んじられた妻の子が長子であるならば、その人が息子たちに財産を継がせるとき、その長子である疎んじられた妻の子を差し置いて、愛している妻の子を長子として扱うことはできない。疎んじられた妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から二倍の分け前を与えねばならない。この子が父の力の初穂であり、長子権はこの子のものだからである」。
・神を愛し隣人を愛せよと言われる。神は見えないから、見える隣人を神の子として愛せよ。近くの隣人を愛せなくて、どうして遠い人類全体を愛することが出来ようか。隣人を愛することこそ神を愛することだ。
-マタイ25::35-40『「お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた』・・・王は答える『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである』」。
・しかし、私たちは隣人を愛せない自分を見出す。そのような私たちは主の十字架を仰ぐ以外に救いは来ない。
-ガラテヤ2:19-20「私は神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。
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