すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.礼拝への集中


・申命記12−26章は申命記の中核、律法の規定である。その律法の最初に正しい礼拝のあり方が述べられる。最初は異教祭儀の徹底的排除である。ただ主をのみ拝せよという十戒・第一戒の具体化である。
−申命記12:2-4「あなたたちの追い払おうとしている国々の民が高い山や丘の上、茂った木の下で神々に仕えてきた場所は、一つ残らず徹底的に破壊しなさい。祭壇を壊し、石柱を砕き、アシェラ像を火にくべ、神々の彫像を切り倒して、彼らの名をその場所から消し去りなさい。あなたたちの神、主に対しては国々の民と同じようにしてはならない」。
・次に礼拝の場所の集中が述べられる。主の定められた場所で礼拝を守れと繰り返し命じられる。
−申命記12:5「必ず、あなたたちの神、主がその名を置くために全部族の中から選ばれる場所、すなわち主の住まいを尋ね、そこへ行きなさい」。
・歴史的には部族連合(各地の聖所)から中央集権国家(エルサレムへの集中)への変化がある。礼拝の場所について、イエスは真の礼拝が成されれば、どこで礼拝をしても良いと教えられた。
−ヨハネ4:21-23「イエスは言われた『婦人よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」。
・どこで礼拝をしても良い。人間は弱いから、どこで、いつ礼拝しても良いとする時、礼拝を怠るようになる。礼拝への集中、日曜日を聖別する、教会を聖所として生活の中心とする。それは掟ではなく、恵みの習慣だ。
−申命記12:11「あなたがたの神、主はその名を置くために、一つの場所を選ばれるであろう。あなたがたはそこに私の命じる物をすべて携えて行かなければならない。すなわち、あなたがたの燔祭と、犠牲と、十分の一と、ささげ物およびあなたがたが主に誓ったすべての誓願の供え物とを携えて行かなければならない」(口語訳)。


2.礼拝の捧げ方


・共同体は神の前にあって食べ、喜び、捧げよと言われている。
−申命記12:6-7「焼き尽くす献げ物、いけにえ、十分の一の献げ物、収穫物の献納物、満願の献げ物、随意の献げ物、牛や羊の初子などをそこに携えて行き、あなたたちの神、主の御前で家族と共に食べ、あなたたちの手の働きをすべて喜び祝いなさい。あなたの神、主はあなたを祝福されているからである」。
・そこにおいては食べることの出来ない者、放置される者が一人も出ないように留意するよう求められる。
−申命記12:12「あなたたちの神、主の御前で、息子、娘、男女の奴隷、町の中に住むレビ人と共に、喜び祝いなさい。レビ人には嗣業の割り当てがないからである」。
・礼拝とは神の前で、喜び楽しむことだ。礼拝は義務ではなく、恵みだ。その恵みは全ての人に開放されている。ここに、イエスが言われた神の国の祝宴が先取りされている。
−ルカ14:21-23「『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい』。僕が『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ』」。
・これまで肉を食べることは、犠牲を捧げた後だけに食する宗教的行事だった。今はそれが解放される。約束の地に入って豊かになった、その恵みを受けよと言われている。
−申命記12:20-22「肉が食べたいと言うなら、欲しいだけ肉を食べることができる。あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所が遠く離れているならば、私が命じたとおりに、主が与えられた牛や羊を屠り、自分の町で、欲しいだけ食べることができる。・・・汚れている者も清い者もその肉を食べることができる」。
・但し血は食べるな。生き物の命は血にあるから、血は主にお返しせよと命じられる。
−申命記12:23-24「ただ、その血は断じて食べてはならない。血は命であり、命を肉と共に食べてはならないからである。血は食べることなく、水のように地面に注ぎ出さねばならない」。
・血は命であるから、人の命を贖いことが出来る。十字架の贖いは、この血の意味を知った時、理解できる。
−ヘブル9:13-14「もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身を傷のないものとして神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」
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