すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.献げ物の聖別


・神に捧げられたものの残りは祭司が食べることが許された。しかし、勝手に食べて良いものではなかった。それは聖別された献げ物であるからだ。
-レビ記22:4-8「アロンの子孫であって、皮膚病にかかっている者や、漏出のある者はだれも、清くなるまでは聖なる献げ物を食べてはならない。・・・日没になれば彼は清くなり、それ以後は聖なる献げ物を食べることができる。それは彼の食物だからである。死んだ動物や野獣にかみ殺された動物を食べて身を汚してはならない。私は主である。」
・今日でも牧師の生活は、神に捧げられる献金の一部で賄われる。それは働きの報酬であるが、同時に聖別された献金であることに留意して用いなければならない。
−汽灰9:13-15「あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。しかし、私はこの権利を何一つ利用したことはありません。」
・また祭司以外のものは献げ物を食べることは許されなかった。それは聖別されたものだからだ。
−レビ記22:10「一般の人はだれも聖なる献げ物を食べてはならない。祭司のもとに滞在している者や雇い人も食べてはならない。」
・祭壇で燃やす献げ物は、傷のないものを捧げよと命じられている。
−レビ記22:18-22「イスラエルの家の人であれ、イスラエルに寄留する者であれ、満願の献げ物あるいは随意の献げ物を献げ物として、焼き尽くしてささげるときは、主に受け入れられるように傷のない牛、羊、山羊の雄を取る。あなたたちは傷のあるものをささげてはならない。それは主に受け入れられないからである。・・・目がつぶれたり、足が折れたり、傷ついたりしているもの、こぶのあるもの、できものや疥癬のあるものなど、このような動物を主にささげてはならない。そのいずれも祭壇で燃やして主にささげてはならない。」


2.何故このような規定があるのか


・私たちは、どうせ燃やすのであれば、傷のあるもので良いではないかと考える。しかし、主が求められるのは、献げ物ではなく、献げる心なのだ。だから傷物ではいけないのだ。
−マラキ1:7-8「あなたたちは、私の祭壇に汚れたパンをささげておきながら、我々はどのようにしてあなたを汚しましたか、と言う。しかも、あなたたちは主の食卓は軽んじられてもよい、と言う。あなたたちが目のつぶれた動物をいけにえとしてささげても、悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても悪ではないのか。それを総督に献上してみよ。彼はあなたを喜び、受け入れるだろうかと万軍の主は言われる。」
・この世の権力者には最善のものを捧げながら、主には傷物を捧げるとしたら、それはあなたが主を軽んじていることではないかと言われる。戦争中の礼拝は正にそうであった。
−戦争中に、日本の教会は宮城に敬礼し、天皇のご真影を拝んでから、主日の礼拝を始めた。特高の検閲があったためだが、これで本当の主日礼拝になるのか。本当に主を拝しているのか。
・今日でも同じだ。まず父を葬りに行かせて下さいと頼んだ弟子に、イエスは、あなたは従いなさいと言われた。
−マタイ8:21-22「弟子の一人がイエスに、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った。イエスは言われた。『私に従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。』」
・礼拝とは、霊とまことをもって拝すること、旧約の預言者たちが繰り返し述べたことはそうだった。犠牲を捧げるだけでは、本当の礼拝にはならないのだ。
−アモス5:21-24「私はお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。たとえ、焼き尽くす献げ物を私にささげても、穀物の献げ物をささげても、私は受け入れず、肥えた動物の献げ物も顧みない。お前たちの騒がしい歌を私から遠ざけよ。竪琴の音も私は聞かない。正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。」
・イエスが犠牲として捧げられ、犠牲を捧げる必要がなくなった。その時、捧げるべきは私たち自身なのだ。
-ローマ12:1「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
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