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2019年2月7日祈祷会(サムエル記上29〜30章、ダビデのイスラエル復帰)

1.追い詰められるダビデ

・ペリシテに逃れたダビデは、ペリシテ王の命令によりペリシテ軍の中に組み込まれ、祖国イスラエルへの討伐軍に加わる。その時、ペリシテの武将たちから不満の声が出る「このヘブライ人は何故ここにいるのか。彼は敵ではないか」と。
−サムエル記上29:3-5「ペリシテの武将たちは尋ねた『このヘブライ人らは何者だ・・・この男は帰らせるべきだ。彼をもともと配置した所に戻せ。我々と共に戦いに向かわせるな。戦いの最中に裏切られてはならない・・・サウルは千を討ち、ダビデは万を討ったと人々が歌い踊ったあのダビデではないか』」。
・こうしてダビデは祖国イスラエルへの討伐軍から離脱する。神は敵を用いて、ダビデを使命の不忠実から救われる。全ては主の経綸の元にある。私たちはあわてて判断して、物事の本質を誤ってはいけない。
−サムエル記上29:11「ダビデとその兵は朝早く起きて出発し、ペリシテの地へ引き返して行った。ペリシテ軍はイズレエルに向かった」。
・本拠地に戻ったダビデを待っていたのは、新たな苦難だった。アマレク人の襲来で家族も財産も略奪されていた。これまでダビデに信頼して従ってきた者たちの中に、ダビデの指導に不満を持つ者も現れた。逆境になると必ず指導者への不満が出る。
−サムエル記上30:3-6「ダビデとその兵が町に戻ってみると、町は焼け落ち、妻や息子、娘たちは連れ去られていた。ダビデも彼と共にいた兵士も、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった・・・兵士は皆、息子、娘のことで悩み、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したので、ダビデは苦しんだ」。
・苦難の中でダビデは主の御名を呼ぶ。神から離れ自己の才覚に頼って、ペリシテ人の中で生きてきたダビデも切羽詰って、御名を呼んだ。人は痛みを覚えないと神の御名を呼べない。だから痛みが与えられる。
−サムエル記上30:7-8「ダビデは主に託宣を求めた『この略奪隊を追跡すべきでしょうか。追いつけるでしょうか』。『追跡せよ。必ず追いつき、救出できる』という答えであった」。

2.苦難の中で主の御名を呼ぶ

・「苦難の中で御名を思い起こせ」、聖書が繰り返し伝える使信だ。放蕩息子も財産を使い果たし、豚のえささえ欲しがる状況に追い込まれて、御名を叫んだ。
−ルカ15:16-19「彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。ここを立ち、父のところに行って言おう。お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』」。
・ダビデたちは敵を追いかけ始めたが、あまりの急進に200名は脱落する。残りの軍勢はエジプト人の道案内を与えられ、アマレク軍に追いつき、全てのものを奪い返すことが出来た。
−サムエル記上30:16-20「彼はダビデを案内して行った。見ると彼らはその辺り一面に広がり、ペリシテの地とユダの地から奪った戦利品がおびただしかったので、飲んだり食べたり、お祭り騒ぎをしていた・・・ダビデはアマレク人が奪って行ったものをすべて取り戻し、二人の妻も救い出した。年若い者も年寄りも、息子も娘も、戦利品として奪われたものもすべて、ダビデは残らず取り返した。更に、ダビデは羊と牛をことごとく奪った」。
・帰途、ダビデたちが、残りの者が待つ場所に戻った時、一部の将兵は「彼らは戦に参加しなかったので、戦利品をもらう権利はない」といい始める。ダビデは彼らをいさめ、全ての将兵に平等に分配する。
−サムエル記上30:21-24「ダビデに従って行った者の中には、悪意を持つ、ならず者がいて、言った『彼らは我々と共に行かなかったのだ。我々が取り戻した戦利品を与える必要はない』。しかし、ダビデは言った『兄弟たちよ、主が与えてくださったものをそのようにしてはいけない。我々を守ってくださったのは主であり、襲って来たあの略奪隊を我々の手に渡されたのは主なのだ・・・皆、同じように分け合うのだ』」。

3.サムエル記上29−30章の黙想

・ダビデの一部の将兵は「戦に参加しなかった者には、戦利品をもらう権利はない」といい始めて、争いになった。ダビデは彼らをいさめ、全ての将兵に平等に分配した。人は背教者や勝利に貢献しなかった者を赦せない。古代教会の「ドナティスト論争」もそうだ。311年にカルタゴの助祭であったカエキリアヌスが同地の司教に任職された際、彼を敘品した司教であるフェリックスが過去のキリスト教弾圧時に聖書や聖物を官憲に渡し棄教した者であったため、ヌミディアの司教たちはこの任職を承認せず、別にマヨリヌスをカルタゴ司教に任じ、マヨリヌス死後には学識と実行力に優れたドナトゥスがカルタゴ司教に立てられた。この論争のテーマは、「人の罪がサクラメントの有効性に影響するのかどうか」にあった。結局、主流派となった教会においては、神の恩寵は人の道徳面の状態からは影響を受けないこと、罪の無い人間はいないことを根拠として、サクラメントは一度棄教した者によるものであっても有効である事が確認された。
・人は誰も罪人であるのに、他者の犯した罪を赦せない。教会には信仰の強い者も弱い者もいる。よく働く人もそうでない人もいる。しかし、恵みは共に分け合うのが教会だ。すべては主のもの、神は働くことの出来ない者も養われる。「私はこの最後の者にも支払ってやりたいのだ」、この言葉に私たちは感謝し、持てるものを差し出す。マタイ20章は教会のあり方を私たちに教える。
−マタイ20:9-14「五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った・・・主人はその一人に答えた『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ』」。
・「この最後の者にも」、経済学者のジョン・ラスキンはこの譬えを基に資本主義経済を批判した著作「Unto The Last、この最後の者にも」(1860年、岩波文庫訳)を発表した。現代社会の不幸を救済するために神の国の経済学を導入すべきであると主張した。彼の経済学は「人間を幸せにするための経済学」と言われており、それを読んだマハトマ・ガンジーが「人間の心の変革を起こす」独自の改革思想に目覚めた契機になったと言われている。またアジアで初めてノーベル経済学賞を受賞したインドのアマルティア・センはラスキンの思想を現代化した人だ。マタイ20章は現代社会のあり方に警告を発する神からのメッセージであり、同時に私たちの悲しみや苦しみは決して無駄ではないという喜ばしい福音を伝えるものなのである。
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