2019年1月24日祈祷会(サムエル記上27章、敵地におけるダビデ)

1.敵地に逃れたダビデ

・サウルの執拗な追跡に悩むダビデは敵地ペリシテの地に逃れることを決意する。彼には三つの選択肢があった。「王を倒す」、「王に殺される」、「敵地に逃れる」。ダビデは王を倒す機会があったが、それは拒否している。王に殺されることは論外だ。ダビデは最後の選択肢である「敵地への逃亡」を決意する。
―サムエル記上27:1「ダビデは心に思った『このままではいつかサウルの手にかかるにちがいない。ペリシテの地に逃れるほかはない。そうすればサウルは、イスラエル全域で私を捜すことを断念するだろう。こうして私は彼の手から逃れることが出来る』」。
・主に油を注がれたダビデが、身の安全を主に委ねることが出来なかった。しかし、そのダビデを、主は守られる。主は契約を破ったイスラエルさえも捨てずに新しい契約を与えられる方だ。
―エレミヤ31:31-33「見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつて私が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出した時に結んだものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる」。
・ダビデは600人の兵を連れてペリシテに行く。彼はペリシテ軍の傭兵として、南部のツィクラグの地を与えられる。
―サムエル記上27:6-7「その日、アキシュは彼にツィクラグを与えた。こうして、今日に至るまでツィクラグはユダの王に属することになった。ダビデがペリシテの地に住んだ期間は、一年と四か月であった」。
・ダビデがペリシテの地で行ったことは、イスラエルの敵である周辺部族の掃討であった。ダビデは敵に降伏したと見せて、実はイスラエルのために働いている。ペリシテ王はこのダビデの二律背反を見抜けない。
―サムエル記上27:8-12「ダビデとその兵は上って行っては、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲った。昔からこれらは、シュルからエジプトの地に至る地方の住民であった。ダビデはこの地方を討つと、男も女も生かしておかず、羊、牛、ろば、らくだ、衣類を奪っては、アキシュのもとに戻った・・・ダビデは、男も女も生かしてガトに引いて来ることは無かった『彼らが我々について、ダビデがこうしたと通報しないように』と考えたからである・・・アキシュはダビデを信じて『彼は自分の民イスラエルにすっかり嫌われたから、いつまでも私の僕でいるだろう』と思っていた」。

2.イスラエルとの戦いを逃れさせられる神

・しかし、ペリシテ軍はいよいよイスラエルとの戦闘を決意する。ダビデも参戦を求められ、イスラエルを相手に戦うかどうかの窮地に追い込まれる。
―サムエル記上28:1「そのころ、ペリシテ人はイスラエルと戦うために軍を集結させた。アキシュはダビデに言った。『あなたもあなたの兵も私と一緒に戦陣に加わることを、よく承知していてもらいたい』」
・ここで主が働かれる。主はペリシテの武将たちに、ダビデがどのような人物であるかを思い起こさせることを通して、ダビデをイスラエル討伐軍から離脱させられる。
―サムエル記上29:4-5「ペリシテの武将たちはいらだってアキシュに言った『この男は帰らせるべきだ。彼をもともと配置した所に戻せ。我々と共に戦いに向かわせるな。戦いの最中に裏切られてはならない。この男が元の主人に再び迎え入れられるには、ここにいる兵士たちの首を差し出すだけで十分ではないか。サウルは千を討ち、ダビデは万を討ったと人々が歌い踊ったあのダビデではないか』」。
・ダビデは、敵の猜疑心という方法で、自分自身から、また自分の使命への不忠実から守られた。主の導きは人の思いを超える。ヨセフがエジプトに売られた時、誰がこれをイスラエル救済の始まりだと思ったであろうか。出来事は後になってその意味が分かる。
―創世記45:4-8「ヨセフは兄弟たちに言った『私はあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。・・・神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神が私をファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです』」。
・十字架の救いもそうだ。誰が十字架を通して救済されると思えただろうか。
―第一コリント1:22-25「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」。

3.サムエル記上27章の黙想

・26章のダビデはいかなる時にも、主の守りが自分にあることを確信していた。
−サムエル記上26:10-11「主は生きておられる。主がサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ。主が油を注がれた方に、私が手をかけることを主は決してお許しにならない」。
−サムエル記上26: 24「今日、主は私の手にあなたを渡されましたが、主が油を注がれた方に手をかけることを私は望みませんでした。今日、私があなたの命を大切にしたように、主も私の命を大切にされ、あらゆる苦難から私を救ってくださいますように』」。
・しかし27章のダビデは「自分の思い」でイスラエルの敵であるペリシテ軍の保護を求める。
−サムエル記上27:1「ダビデは心に思った『このままではいつかサウルの手にかかるにちがいない。ペリシテの地に逃れるほかはない。そうすればサウルは、イスラエル全域で私を捜すことを断念するだろう。こうして私は彼の手から逃れることが出来る』」。
・人が絶体絶命の境地に追い込まれた時、人は神を信じ切ることが出来ず、「主の思い」ではなく、「自分の思い」に従って行動する。その意味で、ダビデもサウルと同じく罪人だ。しかし、主はダビデを守り、サウルを捨てられた。ダビデは罪を犯しても悔い改めることが出来たからだ。パウロはそれを「ダビデは主の思うところを行う」からだと表現する。罪の赦しを信じるかどうかが二人を分けた。
―使徒言行録13:21-22「人々が王を求めたので、神は四十年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの子サウルをお与えになり、それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました『私は、エッサイの子で私の心に適う者、ダビデを見いだした。彼は私の思うところをすべて行う』」。
・人は誰も罪を犯す。その危機の中で主の名を呼び続けることが出来るかが、人の生死を分ける。イエスを否認したペテロも悔い改めを通して赦されていく。ユダは自ら首をくくり、赦しを拒んだ。
―ルカ22:60-62「ペトロは『あなたの言うことは分からない』と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」。
・それは「主は私たちが耐えられない苦難は与えられない」との希望に基づく信仰である。
−第一コリント10:13「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。