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2018年11月29日祈祷会(サムエル記上19章、サウルの殺意とダビデの逃走)

1.嫉妬が憎悪となり、憎悪が殺意となる

・サウルはペリシテ人との戦闘の中でダビデを殺そうとしたが、失敗する。そこにはまだダビデを殺すことへのためらいと罪意識があった。しかし、今は憎悪をむき出しにして、部下にダビデ殺害を命じる。
−サムエル記上19:1「サウルは、息子のヨナタンと家臣の全員に、ダビデを殺すようにと命じた」。
・ダビデを守ったのが、サウルの息子ヨナタンであった。ヨナタンは「ダビデを殺すことは正しくない」と父をいさめ、サウルも一旦は悔い改め、「ダビデを殺さない」と約束する。
−サムエル記上19:4-6「ヨナタンは父サウルにダビデをかばって話した『王がその僕であるダビデのゆえに、罪を犯したりなさいませんように。彼は父上に対して罪を犯していないばかりか、大変お役に立っているのです。彼が自分の命をかけてあのペリシテ人を討ったから、主はイスラエルの全軍に大勝利をお与えになったのです。あなたはそれを見て、喜び祝われたではありませんか。なぜ、罪なき者の血を流し、理由もなくダビデを殺して、罪を犯そうとなさるのですか』。サウルはヨナタンの言葉を聞き入れて誓った『主は生きておられる。彼を殺しはしない』」。
・ダビデとサウルの和解が成立したが、ダビデの武功を見てサウルは再び嫉妬し、彼を殺そうとする。
−サムエル記上19:7-10「ダビデはこれまで通りサウルに仕えることになった。戦いは続いて起こったが、ダビデはペリシテ人を討つために出陣し、大打撃を与えたので、彼らはダビデを恐れて逃げた。時に、主からの悪霊がサウルに降った・・・サウルがダビデを壁に突き刺そうとねらったが、ダビデはサウルを避け、槍は壁に突き刺さった。ダビデは逃げ、その夜は難を免れた」。
・次の機会にサウルは自宅にいるダビデを殺そうとするが、妻ミカル(王の娘)の機転でダビデは命を救われる。
−サムエル記上19:11-12「ダビデの妻ミカルはダビデに言った『今夜中に避難して自分の命を守らなければ、明日は殺されます』。ミカルはダビデを窓からつり降ろし、彼は逃げて難を免れた」。
・ダビデに対する嫉妬が憎悪となり、憎悪は殺意となる。イエスが言われたように、嫉妬や憎悪の念を抱く者は殺人を犯したのと同じだ。主は人の心を裁かれる。その意味で、正しい者は一人もいない(ローマ3:9-18)。
−マタイ5:21-22「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。

2.主はダビデを守られる

・ダビデを救ったのは、王の息子ヨナタンと娘ミカルであった。その背後には主がおられた。全ては主の御手の中にある。ダビデを襲ったサウルを支配していたのも、「主からの悪霊」だった。それはサウルに王の職位からの退位を迫り、ダビデに試練の中の忍耐を教えた。主の守りは「苦難や試練が来ない守りではなく、苦難や試練において平安である守りである」。パウロの信仰告白の通りだ。私たちもこれを経験する。
−第二コリント1:10「神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、私たちは神に希望をかけています」。
・サウルの下を逃れたダビデはサムエルの庇護を求め、サムエルはナヨト(修道院)にダビデをかくまった。
−サムエル記上19:18「逃げて難を避けたダビデは、ラマのサムエルのもとに行って、サウルの仕打ちをすべて報告した。サムエルとダビデはナヨトに行き、そこにとどまった」。
・そのナヨトにサウルは追っ手を遣わすが、主の霊が彼らも捕え、ダビデに手出しが出来なかった。
−サムエル記上19:19-21「サウルはダビデを捕らえようと使者を遣わした・・・神の霊はサウルの使者の上にも降り、彼らも預言する状態になった。サウルはこの報告を受けて、他の使者を遣わしたが、彼らもまた預言する状態になった。三度、サウルは追っ手を送ったが、彼らもまた預言する状態になった」。
・終にはサウル自身がナヨトに赴くが、彼もまた主の霊に囚われ、ダビデに手出しが出来なくなった。
−サムエル記上19:22-24「サウル・・・の上にも神の霊が降り、彼は預言する状態になったまま、ラマのナヨトまで歩き続けた。彼は着物を脱ぎ捨て預言する状態になったまま、その日は一昼夜、サムエルの前に裸のままで倒れていた」。

3.サムエル記上19章と詩編59編

・詩編59篇は伝統的にサウロから命をねらわれたダビデの祈りだとされる。59編表題は「ダビデの詩・・・サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせた時」とある。この表題をどう理解するかで当該詩編の解釈は異なってくる。6節「あなたは万軍の神、イスラエルの神。目を覚まし、国々を罰してください」から、異国人の攻撃に悩む王の嘆願の歌と読む解釈者も多い。しかし私たちは伝統に従って、ダビデがサウル王から命をつけ狙われた時の歌と理解して解釈して行く。
−サムエル記上19:11-12「サウルはダビデの家に使者を遣わし、彼を見張らせ、翌朝には殺させようとした。ダビデの妻ミカルはダビデに言った『今夜中に避難して自分の命を守らなければ、明日は殺されます』。ミカルはダビデを窓からつり降ろし、彼は逃げて難を免れた」。
・ダビデは何故自分の命が狙われなければいけないのかわからない。理不尽な攻撃に追い回される中で、彼は神の救済を待ち望んでいく。「神よ、目覚めて下さい。この不条理を裁いて下さい」と彼は祈る。
−詩編59:2-5「私の神よ、私を敵から助け出し、立ち向かう者からはるかに高く置いてください。悪を行う者から助け出し、流血の罪を犯す者から救ってください。御覧ください、主よ、力ある者が私の命をねらって待ち伏せし、争いを仕掛けて来ます。罪もなく過ちもなく、悪事をはたらいたこともない私を打ち破ろうとして身構えています。目覚めて私に向かい、御覧ください」。
・権力者は自分の地位の保全のために、自分に取って代わる危険性のある者を排除する。迫害される者にとっては身に覚えのないことで命をつけ狙われる。彼は恐怖を覚える。
−詩編59:6-8「あなたは主、万軍の神、イスラエルの神。目を覚まし、国々を罰してください。悪を行う者、欺く者を容赦しないでください。夕べになると彼らは戻って来て、犬のようにほえ、町を巡ります。御覧ください、彼らの口は剣を吐きます。その唇の言葉を誰が聞くに堪えるでしょう」。
・犬、番犬、死肉をあさるもの、その犬が自分を殺そうとしてつけ狙う。その恐怖の中で彼はひたすら祈る。「あなたこそ私の砦の塔、あなたは私を見守って下さる」と、詩人は神への信頼を歌う。敵の攻撃に対する最大の防御は神に対する祈りである。その祈りが詩人の心に平安を与える。
−詩編59:9-11「しかし主よ、あなたは彼らを笑い、国々をすべて嘲笑っておられます。私の力よ、あなたを見張って待ちます。まことに神は私の砦の塔。神は私に慈しみ深く、先立って進まれます。私を陥れようとする者を、神は私に支配させてくださいます」。
・12節から後半に入る。前半は「私の救い」が焦点であったが、後半からは「敵対者の滅び」が中心となる。呪いと欺きを持って詩人を陥れようとする彼らが、その高ぶりゆえに自滅することを詩人は願う。
−詩編59:12-14「彼らを殺してしまわないでください、御力が彼らを動揺させ屈服させることを、私の民が忘れることのないように。私たちの盾、主よ。口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠に、自分の唱える呪いや欺く言葉の罠に、彼らが捕えられますように。御怒りによって彼らを絶やし、絶やして、ひとりも残さないでください。そのとき、人は知るでしょう。神はヤコブを支配する方、地の果てまでも支配する方であることを」。
・詩人は敵の物理的消滅を願っているのではない。絶やす=キッラーとは終わらせること、敵の悪だくみの終りを詩人は願う。事実、ダビデもサウルの死を願わなかった(サムエル記上24:6-7)。彼の願いは「神は地を支配する方」であることを明らかにすることであった。捕囚地の預言者エゼキエルが見出したのも、「神は神であり、人は神ではない」ことを知るために捕囚の苦しみが与えられたという事実である。
−エゼキエル 6:9-10「お前たちのうちで逃れた者は捕囚として連れ去られる先の国々で私を思い起こす・・・そして彼らは、私が主であり、理由もなくこの災いを彼らにくだすと告げたのではなかったことを知るようになる」。
・不安に満ちた一夜が明けた。どのような時にも眠りは人の心を再生させる。不安の中でも眠りに就くことができたのは神の恵みだ。詩人は自分が神の守りの中にあることを感謝して歌う
−詩編59:17-18「私は御力をたたえて歌をささげ、朝には、あなたの慈しみを喜び歌います。あなたは私の砦の塔、苦難の日の逃れ場。私の力と頼む神よ、あなたにほめ歌をうたいます。神は私の砦の塔。慈しみ深い私の神よ」。
・本詩は、本来は個人の祈りの歌であったが、その詩が読み継がれ、民(共同体)の祈りとなって行った。個人があってこそ、初めて共同体もある。一人の魂の救いが創造者なる神の意志であれば、一人の魂の救いが全世界の出来事になっていく。教会の使命も教勢の進展ではなく、一人一人の魂の救済であろう。それは外部状況の変化ではなく(この詩においても命を狙われる状況は変わっていない)、神が見守って下さることを知ることによる魂の平安だ。
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