すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.サムエルへの呼びかけ

・シロの祭司エリの二人の息子は祭司としての召命も責任も感じないで、自らの欲望のままに行動していた。エリは子たちをとがめたが、子は聞かない。神の裁きが息子たちの上に下った。祭司は主に仕え、民を導く役割を与えられている。その祭司が不適切であれば主が除かれる(2:30b「私を重んずる者を私は重んじ、私を侮る者を私は軽んずる」)。祭司=牧師の選択権は主にある。
−サムエル記上2:29-35「あなたはなぜ・・・自分の息子を私よりも大事にして、私の民イスラエルが供えるすべての献げ物の中から最上のものを取って、自分たちの私腹を肥やすのか・・・あなたの家とあなたの先祖の家はとこしえに私の前に歩む、と約束した。だが今は決してそうはさせない。私を重んずる者を私は重んじ、私を侮る者を私は軽んずる・・・あなたの二人の息子ホフニとピネハスは同じ日に死ぬ。私は私の心、私の望みのままに事を行う忠実な祭司を立て、彼の家を確かなものとしよう」。
・エリの二人の息子に代わり、祭司として立てられたのがサムエルであった。サムエルが神殿にあずけられたのは、3歳の時であり、彼はエリの家族らと一緒に育てられていく。彼が13歳になった時、サムエルに主の召命が与えられる。サムエルは主の呼びかけを理解できなかった。神殿のろうそくが消えるころ、夜明け前であった。
−サムエル記上3:1-5「少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた・・・ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、『ここにいます』と答えて、エリのもとに走って行き、『お呼びになったので参りました』と言った。しかし、エリが『私は呼んでいない』と言ったので、サムエルは戻って寝た」。
・同じことが三度続いた。エリは主が呼びかけておられることを知り、サムエルに「主よ、話したまえ、僕は聞きます」と答えるように命じた。サムエルがその通り答えると主の声が聞こえた。
−サムエル記上3:10-14「主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた『サムエルよ』。サムエルは答えた『どうぞお話しください。僕は聞いております』。主はサムエルに言われた『見よ、私は、イスラエルに一つのことを行う。それを聞く者は皆、両耳が鳴るだろう。その日私は、エリの家に告げたことをすべて、初めから終わりまでエリに対して行う。私はエリに告げ知らせた。息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながら、とがめなかった罪のために、エリの家をとこしえに裁く、と。私はエリの家について誓った。エリの家の罪は、生贄によっても献げ物によってもとこしえに贖われることはない。』」
・主の言葉は恩師である祭司エリの家の審きについての言葉だった。しかし、サムエルは聴き、聴いた事をエリに伝え、エリもそれを受け入れた。預言者は聞きたくないことを聴き、話したくないことをも話し、聴く者はそれを受け入れる。
−サムエル記上3:15-18「サムエルはエリにこのお告げを伝えるのを恐れた。エリはサムエルを呼んで言った『わが子、サムエルよ』。サムエルは答えた『ここにいます』。エリは言った『お前に何が語られたのか。私に隠してはいけない・・・』。サムエルは一部始終を話し、隠し立てをしなかった。エリは言った『それを話されたのは主だ。主が御目にかなう通りに行われるように』」。

2.神の言葉を聞く

・祈りには人間が主格のものと、神が主格のものがある。「僕は話します。主よ、お聞きください」という祈りは人が主格だ。「僕は聞きます。主よ、お語りください」と言う時、神が主格になる。イエスが教えられた祈りもそうだ。
−マタイ6:7-8「また、あなたがたが祈る時は、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」。
・「聞く」とは音を耳に感じることだ。「聴く」とは耳を立てて聞く、注意して聞くことだ。主の言葉も「聞くから聴く」になる時、私たちの耳に聞こえてくる。イザベラに追われたエリヤがシナイ山で聞いた声もささやく声だった。
−列王記上19:12-13「火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。『エリヤよ、ここで何をしているのか』」。
・神の言葉は語られる事を通して聴かれる。礼拝では聖書が朗読され、説教がなされる。説教は神の言葉の解き明かしだ。礼拝とは神の言葉が語られ、その解明かしが述べられる場であり、私たちはそれを聴くために教会に集められる。
−申命記6:4-7「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日私が命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」。

3.サムエル記3章からの黙想

・会衆は自分たちの希望が満たされ、不幸が取り除かれることを求め、それを語る者を好む。しかしそれは神の言葉ではない。神の言葉はしばしば私たちには苦い言葉になる。カール・バルトは「人々を満足させる牧師」という説教を通して偽りの預言者を批判した。
−カール・バルト説教選集6巻より「偽りの預言者とは、人々に満足を与える牧師のことである。彼は福音の説教者、牧会者、奉仕者と呼ばれるが、しかし彼は人間たちの被用者にすぎない。彼は自分が神の名において語っていると夢想しているが、彼は世論の名において、立派な人々の名において語っているに過ぎない。キリスト教はあなた方にとって好ましく重要なものである。あなた方は生活の美しい飾りとしてそれを好む。しかし、神の霊とこの世の霊との間には平和はない。神の意志と人間の意志との間の平和を説教し、現在の生と新しい生を穏やかに賢く結び付け、民が築く隙間の多い壁に宗教と言う漆喰を上塗りし、人々を満足させようとする、そのようなことには何の意味もない」。
・「会衆があふれ、教勢の伸びている教会」が、必ずしも神の喜びたもう教会ではない。順調な時には人は称賛するが、一旦逆境になれば手の平を返したように、彼を攻撃する。鈴木正久はかつて数百人が集う本郷中央教会の牧師であったが、太平洋戦争の激化と共に、信徒が教会から離れていく悲哀を経験した。
−鈴木正久説教(1961/4/30)「太平洋戦争が始まると、礼拝に集まる者は30人、20人と少なくなり、最後は7〜8人に減ってしまった。それのみならず、ある時、長老の一人が『非常時に(敵性宗教であるキリスト教の礼拝を続けることは)国策に沿わないと反対さえした』」。
・それにもかかわらず、ひたむきな言葉は人々を惹きつける。同志社大学・原誠は、「戦時下の教会の伝道−教勢と入信者」という論文をまとめた。それによれば、戦時下の1942年、日本基督教団全教会の受洗者は年5,929名だった。国家による宗教統制が激しさを増し、ホーリネスや救世軍などに対する弾圧などが起こり、国家がキリスト教を敵国宗教であるとして疑いの目で見ていた時だ。その時に6千名近い洗礼者があった。戦後、信教の自由が保証され、自由に教会に行くことが出来るようになった1998 年の受洗者は1900名と半分以下になっている。緊張感の弛緩が神の言葉を遠ざけたのであろうか。神の言葉はどのような時代にも語り続ける必要がある。
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