1.不妊の女ハンナの苦しみ

・ヨシュアの死後、約200年にわたって、士師と呼ばれるリーダーによって、それぞれ12部族が統治される時代が続いた。モーセ、ヨシュアの時代には、一つにまとまっていたイスラエルは士師の時代には、ばらばらであった。しかし、イスラエルはいよいよ統一王国時代に入っていく。この転換期に、ある意味で時代を画する人物が出てくる。最後の士師と呼ばれたサムエルである。サムエル記は列王記と並ぶ歴史書であり、預言者サムエルの誕生から王ダビデの死までを描く。サムエル記の主な登場人物はサムエル、サウル、ダビデの三人であるが、その出生にまでさかのぼって描かれるのは預言者サムエルのみであり、彼にはダビデ以上の地位が与えられている。王よりも王を任じた神の歴史を描くという歴史観がそこにある。
・1章はサムエル誕生の物語である。エフライムに住むエルカナはハンナを妻としたが、彼女が不妊であったため、ペニナを二番目の妻として迎える。子をもうけるための多妻は認められていたが、このことが家庭不和をもたらす。
―サムエル記上1:2「エルカナには二人の妻があった。一人はハンナ、もう一人はペニナで、ペニナには子供があったが、ハンナには子供がなかった」。
・子のない女性は呪われていると当時は考えられていた。二番目の妻ペニナはハンナに子がないことを賤しみ、ハンナを苦しめた。毎年のシロの神殿への巡礼は妻たちの不和が表面化しハンナには辛い時だった。
―サムエル記上1:4-7「いけにえをささげる日には、エルカナは妻ペニナとその息子たち、娘たちにそれぞれの分け前を与え、ハンナには一人分を与えた。彼はハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた。彼女を敵と見るペニナは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた。毎年このようにして、ハンナが主の家に上るたびに、彼女はペニナのことで苦しんだ。今度もハンナは泣いて、何も食べようとしなかった」。
・夫エルカナは妻ハンナを慰めるが、彼女の気持ちは癒されない。ハンナは主の神殿に籠もり、男の子が与えられるように激しく祈った。「子を持って、ペニナを見返したい」、彼女の祈りの原動力はペニナに対する嫉妬であった。
―サムエル記上1:10-11「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」
・ハンナは子が与えられてペニナを見返すことを願った。しかし、祈るうちに彼女は変えられていく。「自分の苦しみを知って欲しい、助けて欲しい」という祈りが、「子をいただきましたら、あなたに捧げます」という祈りに変えられていく。神殿の祭司エリはハンナの祈りが聞かれるように、共に祈り、ハンナは祈りが聞かれたことを信じて帰途につく。
―サムエル記上1:16-18「エリは、『安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように』と答えた。ハンナは、『はしためが御厚意を得ますように』と言ってそこを離れた。それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった」。

2.子を与えられたハンナの喜び

・主はハンナの祈りを聞かれた。ハンナは身ごもり、男の子を産み、彼をサムエル(主聞きたもう)と名づける。
―サムエル記上1:19-20「エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を御心に留められ、ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエルと名付けた」。
・ハンナは子どもが乳離れするまで手元に置き、その後子どもを主に捧げるために、シロの神殿に行った。
―サムエル記上1:24-28「乳離れした後、ハンナは三歳の雄牛一頭、麦粉を一エファ、ぶどう酒の革袋を一つ携え、その子を連れてシロの主の家に上って行った。この子は幼子にすぎなかったが、人々は雄牛を屠り、その子をエリのもとに連れて行った。ハンナは言った。『祭司様、あなたは生きておられます。私は、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。私はこの子を授かるようにと祈り、主は私が願ったことをかなえてくださいました。私は、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。』彼らはそこで主を礼拝した」。
・ハンナが子を持つことを強く願った経緯は、二番目の妻ペニナに対する、激しい嫉妬だった。2章前半のハンナの祈りはそのことを隠さない。
―サムエル記上2:1-5「主に会って私の心は喜び、主にあって私は角を高く上げる。私は敵に対して口を大きく開き、御救いを喜び祝う・・・驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神、人の行いが正されずに済むであろうか。・・・子のない女は七人の子を産み、多くの子をもつ女は衰える」。
・しかし、祈りが聞かれることを通して、嫉妬が主への讃美に変えられていく。神は人間の罪さえも良いものにされる。
―サムエル記上2:6-8「主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げてくださる・・・弱い者を塵の中から立ち上がらせ、貧しい者を芥の中から高く上げ、高貴な者と共に座に着かせ、栄光の座を嗣業としてお与えになる」。

3.サムエル記上1章の福音

・イエスを身ごもったマリアは「マリアの賛歌」を歌う。「マグニフィカート」と呼ばれるマリアの賛歌は、カトリック教会で、主日ミサの典礼歌として歌い継がれている。このマリアの賛歌はサムエル記上2:1-10のハンナの歌を基底にした歌である。
−ルカ1:46−48「そこで、マリアは言った。『私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めて下さったからです。今から後、いつの世の人も、私を幸いな者と言うでしょう。』」
・マリアの賛歌は旧約の伝承に立ち、ルカが創作したフィクションであろう。しかし、そこにはフィクションでしか表現できない真理がある。マグニフィカートにある「権力のある、富んでいる者は、弱く貧しい者と場を入れ替わる」という運命の逆転こそ、「貧しい人々は幸いである」と語るイエスの福音(良い知らせ)の真髄である。
−ルカ1:49−53「『力ある方が、私に偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。』」
・同級生にいじめられて自殺する子どもたち、上司の叱責に耐えかねて命を絶つ大人たち。彼らが人間を超える存在があり、人間は相対的なものにすぎないことに気づいていれば、死ななくとも済んだ。ハンナの物語を私たちは伝えていく必要がある。祈りは何よりも祈る者自身の心を変えていく。
―マルコ9:22-24「おできになるなら、私どもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のない私をお助けください。」
・福井誠は語る「『祈り終わったハンナの顔はもはや以前のようではなかった』(1:18)。この日を境に、ハンナの心には変化が生じた。その置かれた状況は何も変わっていない。抱えている問題は、一向に片づいていないが、心は定まり安らかにされ、期待と喜びを持ってこの先を受け止めていく心境に導かれている。彼女は自分の祈りが神に聞き届けられたことを、祈りの結果が出る前に悟った。まさに信仰を持つことはそういうことである。ヘブルの著者も語っている。信仰は『望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させる』(へブル11:1)と」。
・「こんな身近な物語が、書き留められていることの意味を考えたい。ルツの物語に続いて、ハンナの物語は、これまでのモーセやヨシュアの物語に比べれば、完全に小さな片隅のお話である。しかし、神はそのような下々のことをも心に留めてくださるお方である。私たちの思いを素直に語ることに、どうして躊躇うべきであろうか。『どうせ私など』という自分のいじけた気持ちをそのまま素直にさらけ出して、『こんな私ではあるが、主の助けが欲しい』と祈るべきだろう。神は、片隅の祈りにも耳を傾けておられる」(パスタ―聖書一日一章から)。